Chủ Nhật, ngày 10 tháng 5 năm 2015

Các cách Seo youtube

-  Làm Vietsub video nước ngoài, phim
- Làm các playlist video âm nhạc
- Thu lại chương trình TV
- Làm các video proshow

Thứ Năm, ngày 30 tháng 4 năm 2015

───────────────────────
崖っぷちマロの冒険
ヘリベ マルヲ
人格OverDrive
───────────────────────

廊下で見かけたとき、寺井玲子はまだ生きていた。
五年生の全教室が帰りの会を終えていた。行き交う生徒のなかを、裾の長い菫色のワンピースが近づいてきた。
他人なんだ。意識しないよう自分にいい聞かせた。図に乗って家庭の事情を打ち明けたあとだった。だからすれ違いざま、短く囁かれたのも幻覚かと思った。
「体育館の裏。話があるから」
学校で話しかけられたのは初めてだった。
階段掃除を終えるや、教室へ駆け戻った。舌足らずな甲高い声が話しかけてきた。晴彦だ。ついてくるなと釘を刺し、鞄を引っ掴む。薄暗く人けのない場所へ急いだ。
話は結局、聞けずじまいだった。掃除なんかサボればよかった。銀杏の樹の下には、枯葉と腐った実が敷きつめられていた。呼び出した当人はそこで心臓を干していた。色白な肌はさらに蒼白かった。育ちかけた胸には小刀が突き立てられていた。
突き立てられていたのは、ほかにもあった。中指だ。
丸い革靴を履いた両足が、血の海に投げ出されている。長い黒髪、カーディガンをはおった華奢な肩……。扇形の枯葉が、長身へ舞い降っていた。まるで人形みたいに見えた。
お嬢はそのようにして全世界を挑発していた。
図書館で初めてお嬢を見たのは、夏休みだった。そのときも彼女は長袖ブラウスだったように思う。
ことさら暑い年で、極地の氷が溶けたと報じられた。東欧や中国では洪水。ボンベイやニューヨークでは、熱中症で大勢死んだ。通学路にある老夫婦の家のゴンは、脳がすっかりやられた。学校が始まるころには、眠ってない限りずっと吠えるようになった。彼は二年と七ヵ月吠えつづけ、疲れきって死んだ。
アスファルトは砂ぼこりを乾煎りしていた。傘立てには開館以来、なぜか骨だけの傘が差したままだった。自動ドアを二つくぐると、冷気が心地よかった。
教団の眼を盗んで図書館へ通うのが、唯一の楽しみだった。宿題もここでした。夏は涼み、冬はぬくんだ。うちで冷暖房の恩恵にあずかれるのは、父と幹部らだけだった。板張りの道場は夏は蒸し暑く、冬は凍える。そこで一般信者らは、裸足と薄っぺらな白服一枚で通さねばならなかった。
その日も夜のお勤めに備え、息抜きに訪れた。新着棚から児童書コーナーへ。一般書を経て、入口そばの雑誌を読むのがいつものコースだった。一巡したところで気づいた。窓際のソファーで読書雑誌の頁をめくる姿に。
それまで図書館で同級生を見たことはなかった。テライ食品創業者の孫、現社長のご令嬢。五年二組、いや校内でもいちばんの美少女と噂される彼女が、夏休みに近所で暇を潰すとは。
晴彦もそのときはいなかったが、僕は身のほどをわきまえていた。年中誰かのお下がりを着ている。公家みたいに眉が薄い。捜し物の天才との評判で、辛うじてイジメを免れている。そんな子供だった。お嬢に声をかける代わりに、地下のAV資料コーナーでキートンの喜劇を観た。彼はまるで死のうとしてるみたいだった。一階へ戻ると、彼女はもういなくなっていた。
その夏のあいだ、何度かお嬢を見かけた。たいてい日本文学か評論のコーナーで、重そうな装丁の本を読んでいた。新書判の現代詩全集のときもあった。僕には別世界の住人だった。
晴彦は貧弱な体格だった。僕より背が低く、眼鏡をかけていた。聞きとりにくいキンキン声でしゃべった。いつも自信なさげで臆病。たまにキレるという噂があった。他人にはわからない理由で急に暴れだし、手がつけられなくなる。この前年、中山仁美の縦笛を盗んだのがこいつだ。
仁美はいつも取り巻きの女子連につき従われていた。親衛隊めいた熱烈なファンクラブさえあった。華奢で儚げ。誰もが世話を焼きたくなる。どんな悪童も、彼女にだけは手を出さない。彼女のためなら誰もが労働を惜しまなかった。校内で二番目の美少女といわれていた。お嬢は性格に難があるとされ、人望の面で比較にならなかった。
笛の盗難は、学級会で最重要議題になった。四年三組は校内を大捜索した。担任の瀬川は、人のいいおばちゃん先生だった。彼女は慈悲ぶかく宣告した。「盗ったひとは放課後、正直にいいに来なさい。内緒にするから」
騒動は結局、僕のひと言がきっかけで解決した。「湯山先生のとこにあるかも。預かった落し物を忘れてそう」
ビンゴ。生徒らの叱責を浴び、やかん頭の音楽教諭は頭を掻いた。音楽室の忘れ物を見つけたきり、返すのを忘れていたようだ……と彼は弁解した。だが事実は違った。
僕はその日、翌日提出の漢字ドリルを図書館でやろうとして、教室に忘れたのに気づいた。引き返したのが運の尽きだった。隣のクラスの晴彦が、仁美の席に座っていた。
教室は夕焼けに照らされ、影が長く伸びていた。僕は体育着の袋を落とした。晴彦は縦笛をしゃぶっていた。
相手は変質者だ。逆恨みされないとも限らない。泣き喚く晴彦を、僕は必死でなだめた。そして揉み消しに手を貸すはめになった。
職員会議の隙を狙った。針金クリップで鍵をこじあけ、音楽準備室へ忍びこむ。湯山は空き箱に私物を溜めこんでいた。定規や鋏。絶縁テープ。使えなくなったペンや鉛筆。お菓子の包み紙などだ。そこへまぎれこませた。
クリップの使い方は幼稚園時代、潰れた声の不良に教わった。短期間で道場から姿を消した少年だ。性根を叩き直すため、親に合宿に参加させられたと話していた。今はどこでどうしてるやら。
それ以来、どこへ行くにも晴彦につきまとわれるようになった。彼は図書館にまでついてきた。僕はやがて解決策を見いだした。マン・レイや荒木経唯の写真集を与えとけば、彼は何時間でも喰い入るように見つめた。写真雑誌の最新号がヌード特集なら、これで数日は楽になると安堵したものだ。
ブラジルの財布を拾ったのは翌年。これは偶然だった。教職員用の手洗い場に落ちていた。朝から捜していた、と担任はいった。そのふたつがもとで、漫画じみた評判を獲得することとなったのだ。誰もがからかい半分、半ば本気で僕を呼んだ——難事件をたちまち解決する名探偵、と。
その日はあいにくヌードは種切れだった。僕は書架に隠れながら奥へ急いだ。晴彦は玄関から館内を見まわしている。整った容姿の少女が、ブラインドごしの陽ざしを背に、『銀河鉄道の夜』の大型本を読んでいた。彼女の姿勢は、背中に定規でも入れたかのようだった。
考えている暇はなかった。お嬢の隣へ座り、片方の頁を奪って顔を隠した。晴彦は首をひねりながら立ち去った。お嬢は身を遠ざけるでもなく、ただ冷ややかに僕を見下ろしていた。初めて嗅ぐ甘い匂いがした。
「海豚が出ないやつだね。僕はブロカニロ博士のが好きだな」苦し紛れの言葉は、煙となって消えそうだった。
彼女は低くいった。「あなたの読んだの、初期稿が混ざってるみたいね」
それがお嬢と交わした初の会話だった。
それから図書館では会釈を交わす仲となった。帰り道に短い会話をすることもあった。つまり晴彦がおらず、お嬢の機嫌も良ければということだ。放課後の図書館通いは、ただの気晴らしではなくなった。学校では変わらず空気みたいに無視された。
発狂しそうな暑さは、やがて北風にとって代わられる。銀杏が色づき、腐った実を落とす。季節が変わっても曖昧な関係はつづいた。お嬢がどう思っていたかは知らない。晴彦は相変わらずだった。無視する習慣がついた。
お嬢が現れる瞬間を見たことは、なぜか一度もなかった。玄関を気にするうちは来ない。本や雑誌を眺め、ふと顔をあげる。すると何時間も前からそうしていたかのように、窓際で文学全集を読んでいた。姿勢が美しかった。本を盾にして盗み見た。
伸びた背筋。黒い絹を思わせる、長く垂れた髪。透き通るような白い肌。小さく引き締まった瓜実型の顔。長い睫毛に挟まれた、切れ長の瞳。淡く薄い唇。本を支えるしなやかな指。桜貝みたいな爪。襟までボタンをかけたブラウス。脚はいつも長いスカートに隠れていた。
寺村輝夫全集を読破した日だったのを憶えている。余韻を味わいつつ、お嬢に見とれた。晴彦が視線を遮った。
「ねえ見てよ。マンガあるよ。マンガだよ」
聞きとれない文句を並べ、「ねーっ、ねーっ」と首を傾げつづける。この頃には彼の奇矯なふるまいにも慣れていた。多少騒がれても平気で活字を追えたくらいだ。でも限度があった。館内の視線を集めていた。
お嬢は急に立ちあがった。本を書架に戻し、冷ややかな一瞥をくれる。僕は彼女を追った。
自販機コーナーで平身低頭した。玲子の静かな口調が怖かった。
「なんなの彼。お友達でしょ。注意しなさいよ」
「しても通じない。莫迦なんだよ」
「いいコンビ」
「違うって」
「今日は騒がしかったわね。あなたたちだけじゃなく」
年配の利用者が増えていた。ぶつぶつ独り言をつぶやく。鼻糞をはじき飛ばし放屁する。妻に大声で一方的に話しかける。つまらぬ用事で若い女性職員を振りまわし、意味不明な長広舌をふるう。損壊したり盗んだりする者も多かった。
「それより何読んでたの」
「『虞美人草』」
「難しそうだね」
「そんなことないわ。当時の娯楽小説だもの」
「ふうん。誰の本」
お嬢は呆れた眼でじろっと見た。「漱石よ」
「知ってるよ。冗談さ」
すぐに文庫本を借りた。次に会話の機会が巡ってくるまで読み込んだ。
「あれ、集団リンチじゃん。寄ってたかって追い詰めて。男尊女卑そのものだよ」
図書館からの帰途だった。お嬢は可能なかぎり距離をとっていた。僕が勝手についてきただけだ。いつもそうだった。
その歩道は銀杏ロードとして知られていた。扇形の枯葉と、白く腐った実。それらが幾重にも敷きつめられ、踏み固められている。注意ぶかく歩いたつもりでも、僕の運動靴は黄色くまみれた。普通に歩いているかに見えるお嬢の革靴は、ピカピカのままだった。
埃っぽい排気ガスをまき散らし、車は激しく行き交う。その音にかき消されまいと、僕の声はやたら高くなった。
「それは表層的な見方ね」
忍耐づよく聞いたのち、お嬢は静かに見返してきた。なぜかこのときだけは、蔑みの色が感じられなかった。
「当時は社会倫理との対比で照らし出すしかなかった。現代の人権意識とは相容れないから、藤尾が被害者に見える。でも実際はそう単純じゃない。登場人物は全員がんじがらめにされてる。封建社会のしがらみでね。それで結局、誰ひとり幸せにならないの。勧善懲悪パターンにのっとって書かれたにも関わらず」
そしてつけ加えた。「藤尾はたしかに悪いのよ」
この言葉の意味を知るのは、何もかもが手遅れになった後だった。
「ふーん。でおまえ、誰が好きなの」
どのクラスにも、体育だけは得意なお調子者がいるものだ。タカケンこと高橋健太は、そんな人気者だった。色黒で出っ歯。『ズッコケ三人組』のハチベエと、『ゲームセンターあらし』を足して二で割ったような風貌。秘密にする、と彼は請け合った。秘密も糞もない。オルガンに集う女子グループが、白い視線を向けていた。健太の席を囲んだ昼休みのことだった。
「俺、凛子」
「デブじゃん」
「あの豊満さがいいんだよ」
「ま、母性は感じさせるね。おまえは」
「美佳かな」
「ふーん。つまんねえ……」
「なんでだよ」
「普通に可愛いもん」
とうとうお鉢がまわってきた。「で、マロは」
「寺井玲子」
「お嬢?」
みんな噴き出した。爆笑の渦。
「おまえらしいや」
「確かに超美人だけどさ。頭いいし」
みんな腹を抱えた。机を掌でたたき、呼吸困難に陥るやつまでいた。僕は唇を尖らせ、憮然とした。
「じゃ、どこが悪いんだよ」
タカケンが馬みたいに喘いだ。「性格に決まってんじゃん。男なんか一切興味なし」
「つうか人間に興味なし、みたいな?」
「庶民を見下してる。あんたたちみたいな莫迦とは違うって」
「ほんと惜しいよな。あとは完璧なのに」
「金持だからってお高くとまって。あいつん家テライ食品だろ?」
「らしいよ。前の社長が祖父さんで、今は父親だって」
「俺、あそこの漬物喰ったら腹こわした」
「嘘マジ?」
「糞まずいよ。賞味期限ごまかしてんじゃねえの」
テライ食品の悪口で盛り上がる。僕は強引に割ってはいった。
「そういうおまえは誰なんだよ」
「当然、仁美ちゃんだろ」
タカケンは得意げに断言した。芋のメイクイーンそっくりの井上長助は、眼を糸みたいに細めてうっとりした。
「いいよな、あの子は」
「美人で可愛くて性格よくて」
「気がきくし」
腕組みし頷く者。身悶えする者。彼らは口々に叫んだ。
「おー仁美ちゃん、愛しい人よ!」
「部屋に飾っときたいくらいだぜ!」
「結婚してくれー!」
最後の発言者は、全員にぽかっと殴られた。
大瀬川の堤防。あそこでお嬢と話したのは、その放課後だったか。普段はつくりつけの時計の針が四時四十五分をまわると、彼女が静かに本を閉じて席を立つ。僕もあとに続く。それがこの日は一時間も早かった。
不似合いな赤いランドセル。足早に歩く玲子に、数メートル遅れてついていく。突然いつもの道から進路が変わった。河原へつづくコンクリートの階段。寺井家の屋敷とも、学校とも方向がちがう。
プライヴァシーに踏み込むようで、躊躇した。でも不快なら態度で示すはず。一定の間隔を保ってついていった。長い階段を降り、野球のグラウンドの脇をすぎた。あのときの不安が何か、今はわかる。入水自殺でもしかねない気がしたのだ。
雑草の生い繁る土手で、お嬢は鞄をおろした。長い裾を整え、斜面に座った。水面が夕焼けを反射してきらめいた。中州の釣り人が、逆光でシルエットとなっていた。対岸のテニスコートの前を、自転車の若者が通りすぎた。
「縁辺君」玲子は左手で膝に頬杖をつき、流れを見つめていた。僕は思わず周囲を見まわし、同姓の誰かを探した。「いつも何読んでるの」
「面白けりゃ何でも。こないだ『それがぼくには楽しかったから』っての読んだよ。ひきこもりの青年が——」
講釈は余計だった。近づく僕を、玲子は煩わしげに見上げた。「よく心理学コーナーにいるわね」
驚いた。気づかぬうちに、逆に観察されていたのだ。
「入門書なら、たまに」
「『毒になる親』は?」
「読んだの?」
「座ったら……」
隣に腰をおろした。秋風が雑草をざわめかせ、彼女の長い髪を乱した。甘い匂いが鼻先をかすめる。陶器の人形みたいな横顔が、夕陽に映えていた。瞳が光を透かして金色に見えた。薄い唇はオレンジ色。髪はやはり艶やかな黒だった。
「意外だな。お嬢とあの本のとりあわせ」
「私のこと何も知らないのよ」
「お嬢の親ってどんな人? 授業参観でも見たことない」
「母はデザイン事務所の社長。笑わないでね。ファッションデザイナーよ。通販とかスーパーのだけど。妹を連れて離婚したの」
声に自嘲が感じられた。そんなお嬢を見たのは僕だけだったろう。人前で感情を表さない子だった。「うざい」「重い」といった評価を誰もが畏れていた。
「父は私が死のうがグレようが、どうでもいいの。みんな噂してるでしょ。なんで私立に通わないんだろうって。なぜかわかる?」
「さあ……」
僕自身ずっと不自然に感じていた。逃げだしたい気分になった。
「お金がかかるからよ。父はお金が大好きなの。よくある話よね。簡単に割り切れそうで……でも端数は伝わらない」
「だから本があるのさ」
「子供っぽい」
君だって子供じゃないか。その言葉を呑み込んだ。
思いもよらぬ告白に、僕は図に乗った。他人にわかってもらおうなどと、愚かな考えを抱いたのはそれが初めてではない。気を許しあった仲であるかのように錯覚した。
言葉がひとりでに溢れ出た。
「うちは宗教を経営してるんだ。教育委員会や県警幹部にも、熱心な信者がいるよ。政治家だって出入りしてる。母さんは禊の儀式で死んだ。邪念が多くて耐えられなかったんだ。父さんは神様でね、天啓のときはすごいよ。愛の儀式ってのがあって、神通力をおすそ分けしてもらうんだ。旦那さんとか彼氏とか親兄弟とか、まわりで伏し拝むんだよ。みんな神通力で幸せになる。だから喜んで御布施を払うのさ。そうすると功徳になってもっと幸せになるんだ。今の巫女は僕が小二のときから父さんの——」
玲子が鞄を背負ったので、僕は話すのをやめた。彼女は一度も振り返らずに立ち去った。翌日は図書館に現れなかった。
そしてあの放課後。
机を下げる騒音が、どの教室からも聞こえていた。いつもと異なる点は何ひとつなかった。箒と雑巾を手に廊下へ出た。読みかけの本について考えていた。玲子と口がきけなくなったのは気にしていなかった。いわば採点ミスの八十点を、六十九点に直されたようなもの。もともと身分不相応だったのだ。
愉しげな笑いや嬌声。アイドルの話題で盛り上がる女子。鞄持ちのジャンケンをする男子。廊下を駆ける足音、教師の叱る声……。行き交う生徒たちのなかに、菫色のワンピースが見えた。鼓動が高鳴った。表情に出さぬよう努め、他人のふりですれ違った。
「体育館の裏。話があるから」幻覚ではなかった。冷やかな短い囁きが、確かに聞こえた。
振り返りたいのをこらえた。生徒の往来を縫うように、階段を掃いて拭いた。誰かの冗談に愛想笑いした。話がある。お嬢が僕に。班長が解散を宣言するなり、教室へ駆け戻った。
晴彦は恩人の姿を認め、顔を輝かせて迫った。「ねえ僕きのうカナヘビ捕まえたよ。黒くてねー、ちっちゃくてねー、舌ピョロピョロしてんの。それでねー、わさわさっと動くの。それでねー」
「急いでんだ。明日聞いてやるから。ついてくんなよ」
棚から鞄を引っ掴み、教室を飛び出した。何人かにぶつかりそうになった。鞄が狂ったように跳ね踊り、背中をどやしつけた。階段を駆け降り、外靴に履き替え、校舎の裏手へまわった。
お嬢の姿はなかった。
息を弾ませ、周囲を見渡した。枯葉の絨毯に何かが散乱していた。教科書やノート。筆記用具。赤い鞄は蓋があいた状態で転がっていた。内臓をぶちまけられた生き物のように見えた。
あまりに突拍子のない光景は、すぐには認識できないものだ。絞り染めのワンピースに気づいた。銀杏の樹に縛りつけられているのは、よく見ると人形ではなかった。
最初は何かタチの悪い冗談だと思った。それから少女を幹に縛りつけているのが長縄だと気づいた。クラス対抗の縄跳び大会なんかに使うやつだ。赤く染まっていてわからなかった。
ひどいイジメもあったものだ、と思った。それから挑発するような中指に気づいた。その子が仲間と協力して僕を脅かそうとしたんだ、そう信じようとした。奇抜な悪戯だと。
脅かそうとしたのかもしれない。違うかもしれない。いずれにせよ本人の意思でないのは確かだった。それが誰であるかに気づき、赤いものの正体がわかって、僕は腑抜けみたいに立ち尽くした。
玲子の心臓から流れた鮮血の色を、僕は生涯忘れないだろう。
お嬢は手を顎へつけるようにして中指を立てていた。右眼のすぐ下にある、小さな貝のような爪。それはもはや桜色ではなかった。切れ長の眼からは、あの力強い輝きは失われていた。愚弄のポーズが彼女を、蝋人形みたいに不自然に見せていた。
胸に突き立てられた小刀には、見憶えがあった。図画工作で使うやつだ。左手は凶器を掴む前に力尽きたか、離してしまったのだろう。そのまま縛られたように見えた。長縄は印画紙よろしく、その不自然な瞬間を固定していた。見ようによっては十字を切ろうとしてるかにも見えた。
青ざめた滑らかな頬。おそるおそる頚動脈を探った。彼女に触れるのは初めてだった。おかしな話だが、イメージ通りの冷たさだった。医学知識などなくても手遅れだとわかった。
話があるから、とお嬢はいった。重要な打ち明け話でもあるかのような口ぶりだった。「体育館の裏。話があるから」最後の声が耳の奥にこびりついていた。以来彼女を想うたび、この声がよみがえった。話が。話があるから。
ほとばしる水音に振り向いた。体育倉庫の陰に、晴彦が立ちすくんでいた。蒼白の顔が、笑い損ねたようにひきつっていた。足許に広がる溜まりから、湯気が立ちのぼった。
臭気に頬をひっぱたかれたような気分になった。僕は彼の傍らを、靴を濡らさぬように駆け抜けた。遺体を背にして初めて、尿とは異なる臭いに気づいた。生々しい血の臭いだった。
五年二組の担任はブラジルだった。本名は上井戸達郎という。綽名の由来は誰も知らない。何代も前の上級生が呼びはじめたのだろう。三十六歳独身。土気色の馬面、ぼさぼさ髪。手脚は電柱のように長かった。戸口をくぐるとき、頭をぶつけないよう背中を丸める。小学校へ来る前はいろんな場所で教えてたようだ。そのせいか授業に引き込む術に長けていた。
長身を持て余すかのような身振り。精力的に黒板の前を往復し、机間巡視する。言葉には呪術的なリズムがあった。誰かがちょっとでも戸惑えば、身近な例を引き合いに、別の側面から補強する。生徒の集中力が途切れる前に、絶妙の間合いで質問する。それにあの冗談。
あとで冷静に考えれば、どこもおかしくない。なのに僕らは気が触れたように爆笑した。気づけば自然に本筋へつながっている。畳みかけるような指名に誰もが即答する。勢いに呑まれるのだ。
胸の悪くなるような快感——彼の授業にあったのはそれだった。
誰もが熱病に浮かされた。でも心から打ち解けることはなかった。彼が教室にいると、眠る猛獣を前にしたように神経がはりつめる。そばを横切られると、体が無意識にこわばる。けっして厳しくはない。むしろ配慮が精確すぎて薄気味悪いのだ。職員のあいだでも孤立してるように見えた。
階段を駆けあがり、廊下を疾走する。肺と心臓が破裂しそうだった。叩きつけるように引き戸を開けた。担任は漢字プリントの採点をしていた。赤ペンの滑る音に、荒い息が加わった。教室には彼と僕しかいなかった。シュシュシュ、シュルルー。あ、花丸だな。
「どうした縁辺」
本名で呼ぶのはお嬢と彼くらいだった。窓から射し込む夕陽で、頬のこけた顔が陰になっていた。一枚めくって次の答案。シュッ、シュッ。
「帰らないのか。忘れ物か」
僕は戸に手をかけたまま、肩を上下させていた。何をどういえば。酸素をかき集めるのに手一杯だった。
「図書館へ行くんだろう」
「なんで知ってるの」声が脳天から飛び出した。
「職員に知り合いがいる」シュッ、シュッ、シュッ。
「お嬢が殺された」
赤ペンが動きを止めた。上井戸が顔をあげ、振り向いた。表情は見えなかった。
「体育館の裏で。胸を小刀で刺されてる」
僕は予定を書き込む小さな黒板を見た。給食袋が並ぶフックに、ひとつだけ何もかかってないのがあった。それを指さした。
「長縄で縛りつけられてる。銀杏に」
担任はペンにキャップをはめ、答案の上に置いた。おもむろに立ち上がり、僕に近づいた。大きな影は威圧感があった。
「行こう」
低い声でいい、僕の肩に手を置いた。熱い手だった。
晴彦は立ち枯れた木みたいに無視された。相手をしてやる余裕はなかった。上井戸は銀杏の前で沈黙した。いうべきことは僕にもなかった。黄金色の腐った実、溢れ出た血、冷えた小便……臭いの入り混じる風が、枯葉を転がした。
ブラジルは遺体へ近づいた。お嬢の顔は蝋人形のようにしか見えなかった。担任は彼女の手指をほぐすように広げた。僕は葬式に参列しなかった。担任がどうしたかは知らない。でもこの瞬間、僕たちは確かにお嬢へ別れを告げたのだと思う。
短い儀式が済むと担任は、職員室の先生方を呼んできてくれと頼んだ。僕は溜まりを踏まぬよう注意し、晴彦の脇を過ぎた。振り返ると担任は、携帯で警察に通報していた。
普段からは想像もつかない、冷静な声だった。

「死んだ? 何が」
職員室で教務主任の山本をつかまえた。席が戸口に近かったからだ。耳元に小声で打ち明けた。うまいやり方とはいえなかった。彼は事務作業を中断し、振り向いた。
「体育館の裏? 寺井玲子がどうしたって?」
隣のクラスに中学受験を目指す女子がいた。そいつが算数の問題集を手に、担任に質問しているのは気づかなかった。間が悪かった。振り向いた眼は輝いていた。
駄目押しに山本が叫んだ。「刺されて死んでるう?」
ワーナー漫画のロードランナーさながらにスカートがひるがえった。担任が呼び止めようとしたときにはすでに、廊下で待っていた仲間たちが噂を共有していた。狂喜の叫びが聞こえた。
教師らはそれほど迅速ではなかった。初めは誰もまともに取り合わなかった。腹を立ててたしなめる者もいた。僕はうまくしゃべれなかった。それがかえって異様な空気を伝えた。底意地の悪い冗談なら、もっと手際がいいものだ。僕は説明をあきらめ、戸口を飛び出した。大半の先生がついてきた。廊下を走っても叱られなかった。誰もが走っていた。
途中で長崎さんが加わった。生徒に人気の用務員だ。植物や昆虫に詳しかった。生活科や図工のため、いろいろな枝や葉を集めてくれた。何事かと彼は訪ね、誰かが答えると顔色を変えた。
立ったまま気絶する晴彦のむこうを見て、誰もが絶句し、脱力したように立ち尽くした。今にも吐きそうに顔を歪める者や、泣きだしそうな者もいた。それが正常な反応だとするなら、担任の態度にはどこか違うものが感じられた。そのことに気づいたのはずっと後のことだ。
「こっちこっち。早く」
「ちょ、ちょっとあなたたち」
さっきの女子たちだ。保健の小岩井先生を連れていた。白衣の袖や裾をひっぱられていた。その困惑顔が凍りついた。一団は立ち止まった。女子たちは口を押さえ、二段階の悲鳴をあげた。まずは小便を垂れ流す男子に。ついで錯乱気味の絶叫。
それで呪縛を解かれたように、先生方が動いた。子供らの視線を体で遮った。「君たちは帰りなさい。大丈夫だから。ほらほら」
女子たちの肩を支え、向きを変えて追い出した。何がどう大丈夫なのか、説得力はなかった。女子たちは錘を机の縁に垂らすと歩く玩具のように、茫然と離れていった。瀬川先生があとを追った。家まで付き添うつもりだろう。
「あたしの手には負えないわね……」
救急箱を手に、小岩井先生が呟いた。ブラックジャックだって無理だよ、先生。死んでんだもの。彼女は上井戸に尋ねた。
「救急車は?」
「警察を呼びました。検視医も来るでしょう」
いい終えないうちにサイレンが近づいた。
「何々どしたの」
「誰か死んだんだって」
「嘘。先生、生徒?」
「犬でしょ」
「死体どこ」
「跡形もないって」
まだ生徒が残っていたとは驚きだ。ざっと百名はいた。噂を聞きつけて戻ってきたのか。鞄を背負ってる者もいた。声は甲高く騒々しかった。
遺体袋は半時間前、担架で運び去られた。救急車はサイレンを鳴らさなかった。晴彦は誰かに付き添われて退場していた。そのころにはもう野次馬で溢れかえっていた。
パキケファロサウルスが大汗かいて、警官に何やら説明していた。頭突きが得意技の小型恐竜。教頭先生の綽名だ。ビア樽体型の校長が、隣で心許なげに立ち尽くしていた。
立ち入り禁止の黄色いテープ。その向こうでは鑑識員がひしめいていた。白い粉をはたき、フラッシュを焚く。証拠品をジップロックにしまい、文字の札を立てる。チョークの輪郭を検分する。コートの刑事が携帯で話していた。頭に少し寝癖があった。
「まだ連絡つかないの」
小岩井先生は不安げだった。袖を折り返した大きな白衣。ポケットに左手を突っ込み、右手には救急箱を下げたまま。今は健康サンダルの内履きではなく、運動靴だった。化粧気がないせいで「人のいいおばちゃん」風に見えた。
「自宅は誰も出ない。お手伝いさんがいるはずなんだが」
ブラジルが無表情に答えた。体育館の高窓の下に立っていた。
「父親のほうも埒があかない。会議中だとか担当者がいないとか。今、母親にかけてる——あ私、青葉小学校五年二組担任の上井戸といいますが」
彼は送話口を手で覆った。淡々と説明するその背中を、保健教諭はじっと見つめた。
間近で見る事件現場に、子供らは大興奮だった。テープ前に立つ警官をものともしない。伸びをしたり、股下から覗き込もうとしたり。押し合いへし合いしていた。
「お巡りさん、こっち向いてぇ」
「血だー。サスペンス劇場みたい」
「撃たないかな。バンバン」
教師らは滑稽なまでに必死だった。大声をはりあげ、猫なで声でなだめすかした。
「いいから。もう帰りなさい。大丈夫だから」
「お母さん心配するぞ。帰れっておまえら」
「はいはい。はいはい」
私服刑事が上井戸に声をかけた。担任は懐に携帯をしまい、振り向いた。
「縁辺。お巡りさんが話を訊きたいそうだ」
「きゃー。きやあーっ」
「おいマロ。マロって」
僕の緊張を慮ってか。聴取場所は教室に変えられた。被害者のクラスを検分するためでもあったろう。寝癖の私服刑事が引き戸を閉ざした。黄色い絶叫や、吠えるような連呼。押し寄せる生徒もろとも、それらの騒音が締め出された。施錠の音が響いた。前後の戸口にひとりずつ警官が立った。
真ん中の席に、大柄な男が跨っていた。古ぼけたコートと地味なスーツ。年季の入った革靴。黒板に背を向け、こっちを向いていた。ラグビー選手型。がっしりして肩幅が広かった。机や椅子は彼には小さすぎた。三輪車に乗る猛獣みたいだ。でもサーカスの愛嬌ある人気者とは、ほど遠かった。
この人も戸口で頭を下げるんだろうな、と思った。その通りだとあとでわかった。
鞄を下ろすようブラジルにいわれた。大男と向かい合う席へ座らされた。それはたまたま中山仁美の席だった。彼女は去年のクラスでも同じ席だった。そこで晴彦がしていたことを、脈絡もなく想い出した。
廊下の騒ぎは収まらなかった。口笛を吹く者。「名探偵!」と茶化す叫び。「マロ君頑張って!」との黄色い声援。教師たちの声はかき消されていた。寝癖刑事が後ろ手を組み、窓から校庭を見下ろした。別の警官が、廊下側をうんざりしたように一瞥した。
ブラジルが錠を外し、戸を開けた。
「うるさい。静かにしろ」
一瞬で墓場みたいに静まり返った。
「君たちは帰りなさい。明日の朝会で話す」
みんなが散りはじめるのが、僕からも見えた。上井戸は戸を閉めて引き返してきた。何事もなかったかのようだった。
大男は県警捜査一課の飯沢と名乗った。子供なら喜ぶと思ったか、警察手帳を見せてくれた。警部だった。僕はあらためて相手の顔を見つめた。長方形の顔。真一文字の口。小さな鋭い眼。無造作になでつけた灰色の髪。眉間や口元に、哀しげな皺が刻まれていた。
「君が最初に見つけたんだね」明瞭な発音だった。
「最後に話したのも、たぶん僕です」
「何を話したのかな」
「話があるから体育館の裏でって」
「どんな話?」
「わかりません。重要そうでした」
「人前で話せないことかな」
「それはいつもです。僕とは釣り合わないんで」
警部は調子を狂わされたようだった。子供を相手にするのは慣れてないのだ。彼は曖昧な笑みをつくった。
「謙虚なんだね」
「子供の世界ってそんなもんです」
「見当はつかない?」
「読めた試しはありませんよ。お嬢の考えなんて」
「お嬢か。みんなそう呼んでたのかね」
「僕はマロ。眉毛薄いから」
寝癖刑事が、真意を探るような目つきをした。制服警官たちは、子供は突飛なことをいいだすものだ、とでもいいたげだった。僕は担任のほうを窺った。彼は窓の向こうを眺めていた。何か他のことでも考えてるようだった。
「マロ君。お嬢には最近おかしな点はなかったかね。何か悩んでたとか」
おかしいのは家族だ。お嬢は読書の世界に逃避してた。自尊心が高く、他人を頼らない彼女が、眉毛なしのマロに愚痴をこぼすほど追い詰められてたんだ……。そう大声で叫びたかった。でもそんなことをすれば唯一のつながりが失われる気がした。
「さあ。特に」
僕の内心を読んだとしても、警部は態度に表さなかった。
「ご協力ありがとう。あとでまた訊くことがあるかもしれない。そのときは頼むよ」警部は立ち上がった。影が落ちて暗くなり、視界が彼の体に占領された。「お友達は気の毒だった」
「お気遣いどうも」
生徒たちは追い返されて命拾いしたのではと思う。銀行の倒産さながらの、圧死しかねない騒ぎだった。
校門にひしめきあう報道陣や野次馬。校長室と職員室は、問い合わせの電話が鳴りっぱなし。教師たちは対応に忙殺された。子供の死を説明するほどつらいことはない。教えられることが何もなければ、なおさらだ。
僕は裏門からこっそり出してもらった。ひとりで大丈夫かと、小岩井先生に何度も訊かれた。人が死ぬのには慣れてるし、図書館に本を返さなきゃいけないから。そう答えると彼女はギョッとした。ブラジルはじっとこっちを見ていた。
取材陣を避けるのに、遠まわりを強いられた。静かな図書館で本の匂いを嗅ぐと、急に疲れを感じた。
鞄の底から『黄色い部屋の秘密』を出し、返却した。絵本の棚へ行き、『銀河鉄道の夜』を抜き出した。児童書と文庫本の境には、臼歯形のソファーが並んでいた。そこで頁をひらき、文字を目で追った。頭に入らない。砂を噛むようだった。
自動ドアが開くたびに顔をあげた。我が物顔の老人。幼児を連れた若い母親。揉めごとを探す眼の中年男。太い脚の女子高生。さすがの晴彦も今日は現れず、それが事件が幻でないことを示していた。
膝に本を広げたまま、前掛けをした職員たちを眺めた。女性が多かった。書架に本を戻す。資料捜しの相談を受け、キイボードを叩く。全員にどこかお嬢を思わせる部分があった。
「体育館の裏。話があるから」どんな話? わかりません。重要そうでした。人前で話せないこと?
内密の話。不良が焼きを入れる場所へ、僕をわざわざ呼び出す。そして用件を明かさぬまま刺殺された。あんな恰好に固定されて。似つかわしくない卑猥な身ぶり。
真夏でも長袖のボタンを襟元まで留め、汗ひとつかかない。そんな彼女だ。ブラジルの心遣いがありがたかった。少なくとも、僕らふたりが目撃しただけで済んだ。
紛争地の記事を想い出した。密告者の処刑で、見せしめに猟奇的な傷を負わせるという。署名のようなものだ。犯行を芸術作品と捉える異常者も、同じことをするとか。
確かにお嬢は、仁美みたいなアイドルでも、タカケンみたいなひょうきん者でもない。どちらかといえば好かれてなかった。かといって恨みを買うような子でもない。
親の恨みを子が被ったということもある。遺体への冒涜がその犯行メッセージなのか。それにしては明快さに欠けた。そもそも意味があるかもはっきりしない。
おそらく犯人にとっては誰でもよかったのだ。獲物を物色中、たまたま視界に入った——人目につかぬ場所へ、独りで歩いてくる女子生徒が。ちょうど下校時で騒がしかった。声を発する余裕があったとしても、誰の耳にも届かなかった。お嬢は魂を踏みにじられ、最期を迎えた。あんな寂しい場所で。たった独りで。
そう考えるのはつらかった。もう少し早く着いてさえいれば。彼女の死を決定づけたのは僕だった。責任があろうがなかろうが、その事実は背負わねばならない。
お嬢。あんたいったい何が話したかったんだ。
本を閉じた。思いのほか音が響いた。働く車の絵本を選んでいた母子が、驚いて振り向いた。僕は本を書架へ戻した。
顔なじみの職員に、カウンターで呼び止められた。ロングヘアはどこか白人の黒髪を思わせた。黒セーターと細身ジーンズ。帆布の前掛けに名札をつけていた。黒沼美紗子。
「いつもの彼女は?」
「もう来ないんだ」
表へ出た。錆びた骨は、変わらず傘立てにあった。
交通の激しい銀杏ロードを折れた。終末を警告しつづける犬の声。奇怪な増築を施された屋敷が見えてくる。
くすんだ灰色の瓦。酸化した脂の色の木材。干からびた牛糞みたいな漆喰。庇のついた土塀に囲まれていた。門はどこかの寺が後継者不足で閉ざされるとき、強引に召し上げたものだ。右側には白いブリキ看板。荒々しい筆づかいで記されていた。
「本多羅教本部」
祈祷の唸りが聞こえてきた。守衛小屋のオニギリ頭が、経典から顔をあげてこっちを一瞥した。体育大で柔道部主将だった信者だ。その前を過ぎ、敷石づたいに玄関へ。椿の厚い葉が生い茂り、暗くてじめじめしていた。
縁辺家は代々、教員の家系だった。父上の若き日、地元大学の教育学部では受験者が激減していた。教育大が別に新設され、教員養成過程がなくなったばかりだったのだ。入学も、院へ進むのも容易だった。
大学では躁病の心理学教授が幅をきかせていた。一種の教育カルトだった。ちなみにこの教授はのちに失職。鬱で廃人同然になる。直継青年はそこで学び、そして知った。力が何をなし得るかを。
教材会社に就職した父上は、ひと月で馘に。その後は職を転々とした。政治事務所に出入りしたり、知人の宗教団体を手伝ったり。やがて独自の事業を起こした。時代がよかった。教団の発展につれ、屋敷は建て増しを重ねる。近隣を信者に巻き込み、さらに敷地を拡大した。
板張りの道場。百名ほどがお題目を唱え、伏し拝んでいた。男で坊主頭でないのは在家信者だ。
祭壇前の高座には、教祖がふんぞり返っていた。毛虫みたいな眉。仙人めいた灰色ヒゲ。瓢箪みたいに腹の出た体。胴長短足で、筋ばった体つき。眼光は狂気をたたえ、戦中の憲兵を思わせた。胡座をかいている座布団はヒーター入り。金糸を用いた衣裳には、使い棄てカイロが仕込まれていた。
僕はずんぐりむっくりで猪首だ。両親のどちらにも似ていない。母は統合失調症の家系に育ち、晩年は針金みたいに痩せ細っていた。彼らは自信に満ち溢れていた。僕の顔に滲み出ているのは敗北だけだ。そうした刻印は成人後も残る。
人生相談の客が、煎餅座布団にかしこまっていた。身なりのいい母親と、能面みたいな顔の娘。教祖の微笑は慈愛そのものだった。自信に満ちた力強い口調で諭した。
「私はあまたの悩める人を救ってきた。その経験からいって、非常に難しいケースです。すべては前世の祟り。御祓いが必要ですな!」
「どうかうちの子を……!」
「心配御無用。ただひたすら帰依すればよいのです」
すがりつく母親を払いのけ、教祖は急に立ち上がった。紙垂のついた榊を振り下ろし、床を踏み鳴らす。奇声を発した。
「精進じゃーっ!」
祈祷のうねりが高まった。
「本多羅陀〜、本多羅陀〜……」
母親は周囲にならって、額を板の間にすりつけた。虚空を見つめる娘に気づき、その頭を慌てて押さえつける。床を打つ鈍い音がした。僕は末席に加わり、伏し拝んだ。そうして帰宅を報告するのだ。それから食事に行った。
「奉仕員詰所」は刑務所の食堂を思わせた。精進料理と称するものを、当番の女たちが支度する。お勤めを終えた信者が食べにくる。そんな決まりだった。
生前の母は、ここを独りで受け持っていた。手伝いながら愚痴を聞かされたものだ。それでいて彼女は、僕にはいっさい批判を許さず、俗世で穢れたと決めつけた。夫が周囲に及ぼす影響を、自分の力みたいに感じてたのだ。降りかかる火の粉は息子に押しつければよかった。僕は文字通りの生け贄だった。
「禊ぎの儀」のスタイルは、そうして自然にできあがっていった。信者の大半はその成立過程を知らない。最初期の信者は、多くが儀式で姿を消した。あるいは自ら命を絶った。
母は当然の結末を迎えた。不注意による事故、そう処理された。捜査はされず、保険金まで下りた。どんな階段であんな傷を負えるのか。警察は家庭内の問題には立ち入らない。保険会社にしても、カルトを敵に回したくはない。
事件後、組織改変や改築があった。場当たり的な素人商売だったのが、効率よく機能するようになった——権力構造も、末端から金を吸い上げる仕組みも。台所は「詰所」になった。母は古い時代を象徴する存在となった。
端が黒ずみ、ちらつく蛍光灯。量を気遣ってご飯をよそい、長いテーブルに着く。潰れた居酒屋から、強引に譲り受けたものだ。手を合わせて一礼し、箸を取り上げた。老夫婦の視線を感じた。聞こえよがしな囁きが耳に入る。
「教祖様もお可哀相に……」
ほかの数名は僕を無視していた。
「リストがあんの。それを頼りにスーパーで近づくわけ。買物中たまたま話しかけたみたいに」
勧誘担当の女が、手口を披露していた。
「面白いほど引っかかる。子供の情緒不安定で悩んでるでしょ。それとなく話を振るのよ。親身なふりして。何であんな簡単に他人を信用するのかしら。訊いてもないことまで涙目でペラペラ喋る。専門家を紹介したげるっつうと一発でコロリよ。今日の親子なんかいいカモだったわ」
得意げに高く笑った。数名が調子を合わせた。隣席はニキビ面の高校生だった。拳で握る箸から、口へ運ぶより多くの飯粒をこぼす。飯粒は顎にもついていた。
「おい駄目息子。ほんとの死因知ってるか? おまえの母親」彼の口は磯巾着を思わせた。溶けた黒い歯が見えた。「庇おうとしたのさ。ご指名を拒否した挺身員を。教祖様、マジ気の毒」
新参者の聞き囓りか。僕はうんざりした。父上はその後、ぐったりした妻を息子に蹴らせたのだ。そして「お前が殺った」と宣言した。高校生は飯粒を噴き出し、屠殺される豚の声で笑った。
偉大なる教祖様は、夜七時に道場をひきあげる。執務室に籠もり、加持祈祷を行う。そういうことになっていた。実際はこうだ。目をつけた信者を、何人か呼びつける。料亭から取り寄せた料理を平らげる。お笑い番組を観る。体を洗わせ、お祓いを施す……。
一方こっちは、軽く水風呂を浴びる。全員のお勤めが終わるのを、薄い白服と裸足で待つ。ドライアイスみたいな板の間でだ。並の人間なら三日ともつまい。暴力は人生を変えてしまう。こんな呪われた生活がそうあるとは思えなかった。
すべてが終わるのは深夜一時半。宿題は学校か、図書館で済ますことにしていた。黴臭い煎餅布団を、道場の床に敷き詰める。そうして雑魚寝するのだ。冬は腕力のある者が掛け布団を独占する。寝相のいい者ばかりではない。歯ぎしり、鼾。隣に寝ている奴の下敷きになることも多かった。
その日も悪夢にうなされた。夢は記憶を消化吸収する過程だと、何かで読んだ。そうなのかもしれない。小便を漏らす男子。遺体を前にした担任。立ち働く鑑識員。疑わしげな眼の警部……。あらゆる光景が反芻され、そして最後に見えた。
銀杏に縛りつけられた少女が。
胸から下を真紅に染めている。突き立てられた小刀の柄は、水平ではない。わずかに下を向いている。
突き上げ気味に刺されたのだ。彼女より背の低い人間によって。
「先生おはよう」
白っぽい朝の光。一番乗りだった。黒板側の引き戸を開けると、ブラジルが眼に入った。空気は乾いてまだ冷たい。動きだして間もない街の騒音が、窓越しに聞こえた。蛍光灯は消えたまま。電気係はまだ登校していなかった。
「おはよう。出てきて大丈夫か」
担任はやはり顔も上げなかった。今度は算数ドリルの丸つけだ。詳しい解法がおまけされた。僕は鞄の中身を机に移した。
「家にいるよりマシです。お嬢のお母さんは?」
「病院で逢った。大事な商談を放り出して駆けつけたようだ。旦那に親権を取られたのを悔やんでた。遺体の確認にも取り乱さなかった。気丈な方だ」
なぜそこまで生徒に話すのか。奇妙に思いながら、頷いた。「ああ、冷静な親っていますね」
「立派な親御さんだ。気の毒な方だよ」
「父親とは違うと?」
彼は手を休め、初めて僕を見た。感情の読みとれない眼。裸で立つ気分にさせられた。
「やっぱり連絡つかなかったのか……。警察は何て?」
「外傷は胸だけだそうだ」
「ほかには何もされなかった?」担任の反応はない。それを僕は肯定と見なした。「これまでで一番マシな報せですよ」
「また聴取に呼ばれるかもな。君たちに迷惑がかかる」
「僕だって重要参考人ですよ。第一発見者が怪しいっていうでしょ」教室の後ろの棚に、鞄を突っ込んだ。「みんなにはどう説明するんです」
「臨時朝会がある。教頭が命の大切さについて話すそうだ」
「僕は黙ってるべきですか」
「だろうな。強制はしないが」
「校長先生は?」
「縁辺が帰ってすぐ、病院に運ばれたよ。二、三日休養が必要だそうだ。奥さんからの電話ではね。そうはいかないだろう」
「働くって大変ですね」
ブラジルは僕の肩越しに、教室の後ろの掲示を眺めた。写生会の作品が貼り出されている。神社の境内や狛犬が描かれていた。
「図書館仲間がいなくなって寂しいか」
「泣かせたいんですか」
「溜め込むよりはいい」
「ひどい気分ですよ、先生。でも彼女のお母さんに較べたらマシです。乗り合わせた他人が、別の駅で降りただけですから」
「寺井は賢治が好きだったな。短かくても一緒の時間を過ごせたろう。それは無意味か?」
僕は考えた。「価値があったと思います」
「あの本に書かれてるのはそういうことだ。ところで縁辺、警部に嘘ついたな」
「よくお見通しで。お嬢は問題を抱えてた。他人の家のことはわかんないけど。『幸せな家庭の幸福はどれも似通ってるが、不幸せな家庭の不幸はそれぞれ』ってね」
「いいか縁辺。財布の件は感謝してる。でも、ごっこ遊びと現実を混同するな」
担任の態度には、普段と何の違いも見出せなかった。彼は採点を再開した。何かが閉ざされ、僕たちは教師と生徒に戻った。
「わかってますよ……」
女子集団がかまびすしく入ってきた。僕の返事はかき消された。

愛される子供は説かれるまでもなく知っている。そうでない子供は自力で学ぶしかない。生命の価値とはそういうものだ。
パキケファロは全校生徒に、「悲しいお知らせ」を告げた。「思いがけない事故で亡くなったお友達」について語った。少年犯罪がマスコミを賑わすたび、繰り返される十八番。それをこんなときにまで持ち出した。どう考えてもそぐわない。
おそらく彼も途方に暮れていたのだ。対岸の火事であるうちはよかった。それまで教えてきたことの浅薄さに、呑み込まれて初めて気づく。修正するにはあまりに長く口にしすぎた。だから始終、マイク角度を気にした。拡声器が水を注すように共鳴した。広げた話をまとめきれないまま、苦い顔で降壇した。
教員たちの半数は、痛々しいものを見た顔をしていた。残りは体を揺すり、視線をさまよわせていた。話が終わったときには、全員が見るからに安堵していた。
同学年の女子たちは嗚咽していた。あたかも親交があったかのようだ。お嬢を知るはずのない子まで啜り泣いていた。低学年の連中はポカンとしていた。空を眺めたり、爪先で砂をつついたり。感受性の強い子が、意味もわからずに泣きだした。
お嬢が見たら冷笑したろう。そしてすぐ本へ視線を戻したに違いない。風が冷たかった。校庭に立ちっぱなしで疲れた。何度も欠伸が漏れた。丸一日、学級会で潰れるだろうと思った。故人の想い出を語り合い、追悼の作文を書かされるのだ。
そうはならなかった。
機関銃のような解説、消されては埋め尽くされる板書。質問と補足説明の集中砲火。誰ひとり脱落さえ許されない。生徒は熱病のように挙手を競い合う。板書を写す鉛筆はノートに火をつけんばかり。巧みに織り込まれる冗談に、教室は頭に火がついたように爆笑する。
異様だった。
鐘が鳴り、担任は退室した。誰もが机にぐったり伏せた。窓際の空席を意識しつつも、噂を囁きあう気力さえなかった。空の色と同じように重苦しい雰囲気だった。
間延びした声が静寂を破った。「あのさあ、ニュース観た?」
教室中がのろのろと振り向いた。誰もが眼の下に隈ができていた。声の主はユーチャンこと斉藤祐太だった。身体測定のあと、必ず保健室に呼ばれる肥満児だ。
「連続小学生連れ去り事件。車に無理やり乗せるんだってぇ」
「黙れよデブ」
タカケンが端的にいった。ユーチャンは傷つき、ぶすっとした。
鉛筆は五本とも潰れていた。消費者金融のティッシュを広げ、机の物入れを探った。父の教育方針で、シャープペンも鉛筆削りも持っていなかった。奥でくしゃくしゃになったプリントを引っかきまわす。覗き込み、中身を抜き出した。椅子の上であらためる。
血の気がひいた。
机の中身を戻し、椅子に座り直した。鼓動が速まった。
隣の志穂は、地味でおとなしかった。鉛筆削りを貸してくれと頼んだ。彼女はまるでいやらしいことでも頼まれたみたいに頬を染め、小さく頷いた。手渡された代物に、後ろめたい気分で鉛筆を挿入した。不穏な可能性は考えないようにした。
次は社会科だった。鐘と同時に担任が現れ、教室はドーピングされた猿の群れのようになった。長介でさえひと言も噛まずに、教科書を読み上げた。ブツッという雑音がその声を遮った。ピンポンパンポン……黒板の上のスピーカーだ。
「五年二組の縁辺丸夫君。至急職員室まで来てください」
教室に真空が生じた。高負荷時に急に割り込まれ、処理が停滞したのだ。砂の流れるような雑音のなかで教頭の声が響いた。
「繰り返します。五年二組の——」
放送が終わるなり、熱い視線がいっせいに突き刺さった。後ろの戸口に近いタカケンが、『名探偵コナン』の主題曲を口ずさんだ。
「行け、マロGO!」
ブラジルは僕の表情を見ていた。「行きなさい。遅れた分は質問に来ればいい」
職員室に顔を出すと、山本が席から腰を浮かした。落ちつかぬ身ぶりで、応接室の扉を示す。
教頭は後退した額を、ハンカチで拭いていた。僕が入室すると、とがめるような眼で振り向いた。到着が少しでも遅れていたら、彼は緊張で死んでいたろう。
飯沢警部は合成皮革の黒ソファーに浅く腰かけ、膝に両肘をついて、手をあいだに垂らしていた。低いテーブルには手つかずのお茶。鋭い視線が、おもむろに僕を射抜いた。
「よう、マロ君」
「どうも。こんちは」
僕の興味は、もうひとりに引きつけられた——というか、その髪型に。殺害現場で携帯にがなりたて、教室で窓を眺めてた、三十代なかばの刑事だ。それはただの寝癖ではなかった。スネ夫の髪型そっくりなのだ。彼は膝の上で手帳をひらき、ボールペンを構えた。
僕は促されて教頭の隣に座った。トポロジー現象に気をとられ、予想できたはずの質問に動揺した。
「最近、何かなくさなかったか」
警部は身じろぎひとつしなかった。スネ夫頭はペンを構え、醒めた眼で辛抱づよく見つめてきた。教頭はまるで、教会に紛れ込んだ宴会客だった。警官たちと生徒とを、心許なげに見較べた。派手な喧嘩で知られる頭突き竜だが、案外臆病だったのかも。そんなことを思った。
「僕のだったんですね。小刀」読みとれるような反応はなかった。警官たちは無言だった。「なんで昨日、訊かなかったんです?」
「名前シールが血で読めなかった」
見えすいた嘘に思えた。だがそんなことをする理由がわからない。古びたソファーは座り心地が悪かった。尻を動かすと耳障りな音がした。「……僕はやってない」
「え?」
愚痴だって黙って聞いた。母さんは自業自得だ。「できるなら助けたかった。僕のせいじゃない」
「犯人だなんて誰がいった」飯沢警部の眼には面白がるような色があった。スネ夫頭は表情を見せない。ロボトミー手術でも受けたみたいだった。
「お嬢は下から刺されてた。背の低い奴にやられたんです。ちょうど僕ぐらいの」
警部は僕を見つめた。ひどい世界を見すぎて、皮肉さえ忘れた顔だった。「評判を聞いたよ。名探偵なんだって?」
「それはみんなが勝手に……」
「いつだね。小刀をなくしたのに気づいたのは」子供相手の気さくな調子は消えていた。
「ついさっき。鉛筆削ろうとしたら消えてた。きっと長縄といっしょに盗られたんだ。机の中に入れっぱなしだったんです」
「どうして君のなんだろう」
「さあ……罪をなすりつけられる謂れなんて。マイムマイムで女の子と手をつなぐ前は、必ずズボンで汗を拭くし。プロレスで誰かを怪我させたこともない。ビー玉やメンコを巻き上げたことだって。たまたまじゃないですか」
警部は関心を失ったように見えた。相棒へ頷きかける。スネ夫頭は手帳を閉じ、懐にしまった。警部は立ち上がりながら、ふと思いついたように尋ねた。いかにもついでのように。
「被害者の遺体だが。君が発見したとき、どんな状態だった」
「どんなって?」
「我々が到着するまで、動かしたりしなかったかね」
「誰がいじりたがります? 例え好きだった子でも」
「それを査べるのが我々の仕事だよ」
警部は教頭に礼をいい、戸口へ向かった。スネ夫頭が続いた。教頭はソファーから跳びだし、何度もお辞儀した。水呑み鳥の玩具みたいだった。
「待って。ひとつだけ教えてください」
ふたりは振り向いた。教頭は泣きそうな顔で僕を見た。警部は静かにいった。「捜査のことなら何も教えられない」
「そちらの刑事さんの名前は」
尾根河だとスネ夫頭は答えた。僕は彼の顔を見つめた。
警部は困惑顔でうめいた。「どうしてみんな驚くんだ」
「もう諦めてますよ」スネ夫頭は哀しげにいった。見た眼より若い声だった。ふたりは応接室を出ていった。
会見の内容は校内に知れ渡った。便所と称して教室を抜け出し、立ち聞きした生徒でもいたのだろう。噂は雪だるま式に膨れあがった。あいつが刺したらしい。ストーカーだったんだって。勝手に持ち上げておきながら掌を返す。落差が大きいほど祭りは盛り上がる。探偵としての名声は、急速に失墜した。
同級生は遠巻きに白い眼で見つめた。全教室から偵察が派遣され、戸口に野次馬が群がった。休み時間に席を立つと、空気が緊迫した。通り道にいた者は身をこわばらせた。短い悲鳴もあがる。廊下では野次馬の海が裂けた。便所ではひと騒ぎあった。慌てて飛び出す者、動揺して狙いを損ねる者。個室からは慌てて巻紙を引き出す音がした。
戻ってきたら隣の机が数センチ離れていた。志穂は人形みたいに固まっていた。噛みしめた唇が色を失っている。涙目だった。僕はため息をついた。
帰りの会で担任は、児童連れ去り事件について話した。人目につかない場所や、よく知らない大人への注意を促した。普段と変わりない態度だった。まるで刺殺された生徒など、初めから存在しなかったかのよう。拍子抜けの気分が教室に漂った。あえて質問する勇気は誰にもなかった。空席の欠落感が教室を支配していた。そしてその雰囲気を、ブラジルは確実に支配していた。
班の連中は、僕に掃除を押しつけて逃げた。階段掃除を終えて図書館へ向かった。晴彦はうずくまって犬の糞を観察していた。顔を輝かせ、飛び跳ねながらついてくる。空き箱で飼育中のカナヘビについて、耳元でまくしたてた。死体を目撃した記憶は抜け落ちたみたいだった。
新聞コーナーで、地方紙の朝刊をひらいた。四コマ漫画の下に出ていた。
「『女児 図工用小刀で死亡』
昨日午後三時ごろ、青葉小学校の敷地内で、女児の刺殺体が発見された。女児は工作用の小刀を胸に刺されていた。女児はこの小学校の五年生で、テライ食品社長寺井友之助さん(47)の長女、玲子さん(11)。中央署では詳しい事情を調べている」
何度も読み返した。これだけだった。全国紙の県内版も確かめた。親についての説明がないだけで、大差なかった。
雑誌コーナーの椅子で、グラビア書評誌をひらいた。流行モデルが推理小説を紹介していた。洗練された死は僕の知るものとは似ても似つかなかった。晴彦には文芸誌の官能特集号を与えた。漢字が読めない彼のため、読み方を何度も教える羽目となった。退屈した彼は雑誌を隣席へ放り出した。
僕は鞄を足許に置いていた。ロッカーは閉鎖されていた。年配の男性利用者が若い女性を脅かしたからだ。分別盛りの彼らはいい手本になった。晴彦は荷物でまわりの席を独占していた。
「ねえねえそれでねカナヘビはねー」
玄関脇には市民サークルの水墨画が飾ってあった。チューリップ帽の男が、出入りする全員に話しかけていた。「はは、布袋様がこんなとこでくすぶってら!」
資料調査カウンターでは、リュックを背負った青年が長話をしていた。頭頂部を糸で引っ張られてるような、奇妙な動き。内容は支離滅裂で意味をなさなかった。職員たちが寛大に対処していた。
胸に工務店名が刺繍されたジャンパーの初老男が、新聞コーナーを占領していた。短い脚を組み、新聞を大きく広げていた。座ろうとする若い女性を睨みつけた。
僕は読書誌を読んでいた。座談会の誌面に影が落ち、顔をあげた。おばちゃん職員が、腰に両手をあてて仁王立ちしていた。厳めしい顔で、人差指を口に当ててみせた。
「お静かに。ほかの利用者の迷惑ですよ」
注意しやすい子供を口実にして、周囲をたしなめたかったのだろう。咎めだての視線が集中した。まったく近ごろの子供は……。僕は謝り、雑誌を戻して鞄を背負った。晴彦にも身支度させ、手を引いて外へ出た。通りに出るなり振り払い、歩調を早めた。晴彦は一瞬キョトンとしただけで追いついた。
「それでねーそしたらねー」彼は僕の耳元でまくしたてた。答えずにいると顔を覗き込まれた。「そしたらねー」
銀杏ロードの交通量は、この日はなぜか少なかった。背後に迫る高級車には気づかなかった。いきなりドアがひらき、袖を掴まれて車中へ引き込まれた。立ちすくむ晴彦が垣間見え、彼の鼻先でドアが閉じた。鼓膜が金属的に鳴った。車は再び滑りだした。ほとんど音を立てなかった。
生暖かい息が顔にかかった。黄金色の眼と視線があった。黒豹の仔だった。赤い頸輪をつけていた。
「いつまでそこで寝てるつもり?」舌足らずの声。
僕は体を起こし、獣を膝に乗せた女の子と向き直った。
六歳くらいか。黒い制服と制帽は、聖愛女学院初等部のものだった。まっすぐな肩までの髪。黒タイツに丸い革靴。大きな眼とふっくらした頬が、フランス人形を思わせた。
車内は広く、身を遠ざけるのに充分な空間があった。初老の運転手は、拉致が日常業務であるかのように落ち着きはらっていた。革と樫材の内装。座席は柔らかく、体を包み込むようだった。スモークガラス越しに景色が流れていた。
僕は鞄を前に抱え、黒豹の攻撃に備えた。「あー、質問いいかな。山ほどあるけど……」
「あたしは後藤杏。寺井玲子の妹」
「お姉さんに聞いた。お母さんについた子か」
「ひどい」
「こんな目に遭ってみろ。口も悪くなる」
「名前は父がつけたの。髪が赤っぽいから。今は染めた。校則で」
幼い口が発する言葉は、非現実的でそぐわなかった。声優のアテレコを思わせた。彼女はペットの喉を掻いた。黒豹は僕を睨んで低く唸っていた。手をかけられてるのが毛並みでわかった。
「可愛いでしょ。雌猫なの。ピエール瀧」
「は?」
「この子の名前。棒アイスが好きなの。あなたが気に入ったみたい」
「目的は? 金持ちが貧民を誘拐するなんて」
「仕事を頼みたいの」
「はあ?」
「名探偵マロ。あなたのことでしょ。聖愛でも評判」
僕はまじまじと相手を見つめた。こましゃくれた態度に騙された。やはりまだ現実とアニメを混同する年齢なのだ。
「失せものを二度ばかり見つけただけだ。それをみんなが面白おかしく誇張した。ばからしい……」
「うちの家族についてどれくらい知ってる?」
「金持で、美人の長女が殺された。妹は変人」
「パパについては知ってるわね。ママは『後藤凉子デザイン事務所』の経営者。三年前、あたしと梶山を連れて離婚した。姉はパパのとこに残った。お祖父さんはテライ食品の名誉顧問。引退したの。変わり者だけどいい人よ。バラバラに暮らしていても、みんな大事な家族。ママは仕事も手につかないで自分を責めてる。どんなに争ってでも姉を手放さなきゃよかったって」
「気の毒だった」
「姉を見つけてくれたんでしょ。飯沢警部が母に話すのを聞いた」
「案外お喋りだな、あの人」
「状況を詳しく教えて」
「お嬢とは図書館でよく顔を合わせた。親しくはなかった。なのにあの日、放課後に呼び出された。掃除を終えて体育館の裏へ行った。彼女は樹に縛りつけられてた。胸には小刀が。もう冷たくなってた」
「拳をあげてたって聞いたけど」
「君の方が詳しそうだ」
「異常者の犯行ね。そう思わない? 殺してから縛るなんて」
「なぜその順序だとわかる。それも警部が?」
「抵抗した形跡はなかったって。知ってる人だったのかも。変な格好でくくりつけたのには意味がある。きっと現場にメッセージを残したのよ。一種の犯行声明ね。でなきゃ死体に呪われないための魔よけとか。犯人にはこだわりがあるのかも。本人にしか理解できないような」
「君、何年生?」
「一年。あなた何か隠してない?」
「四つ下か。信じらんないね。隠すって?」
「メッセージにしては変よ。わかりにくい」
「相手は異常者だぞ。まじないか何かだろ」
四つの眼に睨まれた。ピエール瀧はおまけに牙を剥き出していた。運転手の助けは期待できない。僕はついにブラジルの隠蔽工作をバラした。後藤杏は動じなかった。あどけない顔の強情な色に、そのとき初めて気づいた。確かにお嬢の妹だった。
「そんなことだろうと思った。それならしっくりする。『悔しかったらこの謎を解いてみろ』って挑発ね。警察への、それとも——」
「いつそう決まった? 『魔よけかも』って自分でいったろ」
「待ち合わせの約束だけど。ほかに知ってた人は?」
「いや……でも独りになるまで尾けることは、誰にもできた」
「姉との関係を知ってた人は?」
「『関係』ね……。晴彦と担任かな。あと図書館の人。ブラジルとにはアリバイがある。それにやったのは子供だ」僕は小刀の角度について説明した。
「動機に心当たりは?」
「知るか。中山仁美が被害者なら、偏執的なファンを疑うけど。お嬢はああいうアイドルって柄じゃなかった」
「あたしたち家族は何も知らなかった。あなただけなのよ。姉の悩みに気づいたのは」
僕は黙り込んだ。
「あたしにはわかる。メッセージはあなた宛よ。図書館で一緒にいるのを見られた。それで待ち合わせ相手だとバレたのよ。挑発されて黙ってるの?」
僕の視線はピエール瀧に釘づけだった。鋭い牙と爪。背中を弓形にし、毛を逆立てていた。今にも飼い主の手を離れ、飛びかかってきそうだ。鞄はたいした防御になりそうもない。
「今日はどうしちゃったの? いつもおとなしいのに……」
「どうしろってんだ。ただの小学生に何ができる」僕の声は悲鳴に近かった。
「犯人を見つけて。推理で警察に協力するのよ」
「いったろ。ただのごっこ遊びだって」
「犯人、捕まえたくないの?」
「私からもお願いいたします」
だしぬけに運転手が口をきいた。ミラーごしに眼鏡と視線が合う。誠実そうな太い眉、口ひげと七三に分けた髪は灰色だった。高級そうなダーク・スーツ。教団に出入りする政治家の秘書もそんなのを着ていた。あの連中より古風で品がいい。
「子供のわがままを助長させてどうすんです。甘やかし過ぎじゃないですか」
穏やかで哀しげなまなざしは僕に訴えていた。調子を合わせるようにと。その瞳の底に影が見えた気がした。家庭の混乱に苦しむ少女の影が。拒むことはできなかった。
僕はまだほんの子供だった。暗がりを照らせば何が現れるか、充分に学んでいなかった。お嬢に関心を抱いた時点で、すでに深入りしすぎていたのだ。銃口は少なくとも、四人の後頭部に突きつけられていた。無知はいいわけにならない。
ベトナムに関する古い唄に、こんなのがある。
僕は世界の忘れられた子。照らし出しては殲滅する。

植田次子はいつもシャンプーの使いすぎに思えた。銀杏の臭いに紛れて、近づかれたのに気づかなかった。
僕は走り去る高級車を見つめていた。幻覚でも見ていた気分だった。銀杏ロードが見慣れぬ景色に思えた。黄色にただれた道は、種を踏むたびに白骨の砕ける音がした。影が長く延びていた。いつかあれだけ背が伸びるだろうか、と思った。
その影を別の影が覆った。
背後を振り仰いだ。薄曇りからの夕陽を背に、植田が仁王立ちしていた。乳房はむしろ胸板といってよかった。担任や警部より背が低いとは信じられなかった。
グローブみたいな手に突き倒された。埃っぽい排気ガスと銀杏の臭い。車の往来は激しくなっていた。タイヤが種を砕き、落ち葉と実を圧延した。僕は立ち上がり、擦りむいた手でジーンズを払った。染みも臭いも落ちなかった。
「中山さんがお呼びだ。身に余る光栄だな」
植田の声は、調弦の必要なコントラバスを思わせた。振り返りもせず、巨体を揺らして歩きだした。従うしかなかった。
行く先は公園だった。スプレーで落書きされた公衆便所。鉄パイプと鎖の遊具。犬猫の休憩所と化した砂場。コンクリートの小山で、ビール瓶の破片が輝いていた。北風が落ち葉を弄ぶ。側溝や遊具の足許に吹き溜まっていた。
ブランコに群がる四人の女子が見えた。仁美はその中心で俯いていた。一人乗りブランコの片方に座っている。ざっくりした深紅のセーター。焦茶の巻きスカート。茶色のブーツ。濡れ羽色の髪を、ヘアピンやリボンで複雑にまとめている。寒さのせいか肌は蒼白く、頬はほんのり色づいていた。
大判の冊子を膝に乗せていた。写真アルバムだ。
事情を知らなければ、いじめの現場にも見えたろう。視線が一斉に僕を捉えた。仁美の表情が輝いた。近づく僕を、はにかむような微笑で見つめた。
みんながアイドル扱いするのは理解できたが、僕自身はこの子が苦手だった。どこか不均衡な印象があったのだ。華奢で、背丈は僕と変わらない。なのに体の丸みは大人を思わせた。ぽってりした唇。毒蛾みたいに瞬く長い睫毛。小さな尖った顎は、猫科の生物を連想させた。
取り巻き連が臭いに顔をしかめた。仁美は気づかぬかのようだった。アクリル玉みたいな眼で、真剣に見上げてくる。「お願いがあるの。聞いてくれる?」声にも同じ力があった。
「僕にできることなら」
「ジェレミーを捜して。仁美の大切なお友達なの」
「外人?」
「シュタイプの熊」
「逃げたの?」
さらに女子たちの反感を買った。植田次子が声を荒らげた。
「口のききかたに気をつけろ!」
「座って」
仁美は隣のブランコを示し、アルバムをひらいた。仰せに従った。板を吊る鎖が軋んだ。女子たちは輪を狭めた。逃げる隙はなかった。街灯が瞬いて点灯した。
「それじゃ見えないわ。近寄って」
威圧の視線を浴びつつ、ブランコを寄せ気味にした。このごろ急に胸が育ったな、と思った。お嬢とは違う匂いがしたように思った。銀杏のせいでよくわからなかった。
「これが仁美の家族……」
どこかの写真館で撮られた肖像。絵に描いたように幸福そうな一家だ。赤ん坊が、母親の顔を熱心に見上げていた。フードつきの水色タオル地のロンパース。着ぐるみをつけた人形みたいだ。彼を抱える母親は、フリルの花柄ドレスが似合っていた。勝ち気な眼、長い髪。口許にはホクロ。
スーツ姿の父親が、娘の手を握っていた。精悍な顔立ちは二十四時間、世界で闘うビジネスマンといった感じだ。仁美は栗色のウェーブヘア、襞とフリルの紅茶色ドレス。下唇を噛み、こっちを見据えていた。八歳くらいか。
次の頁には全裸の仁美。ぷくぷくした赤ん坊だ。手足の指を丸め、片足をしゃぶっている。クリッとした眼を、写真の外へ向けていた。内腿のつけ根にホクロがあった。
数年後の彼女が、その下にいた。夏の日射しに眼を細め、砂の城に手をかけている。父親に作ってもらったのだろう。母親は親切な撮影者に笑いかけていた。赤いビキニが白い肌を際立たせている。夫の体は引き締まり、陽に焼けていた。彼は自慢げに白い歯を見せていた。
家族は輝いていた。生命保険のCMを思わせた。
「この頃は幸せだったな。パパとママがいて、幸博がまだ生きてて。何もかもがうまくいってた」
仁美は睫毛を伏せて語りだした。ガラス細工のように可憐な指で、写真を示しながら。
中山繁雄は仁美にとって、自慢の父だった。テライ食品で、缶詰や乾物を買いつける仕事をしていた。いつも海外を飛びまわっていた。寂しくはなかった。週末はパソコンで顔を見ながら会話できた。帰国のたびにお土産もくれた。色とりどりのお菓子。木製の玩具。異国の言葉で書かれた、美しい絵本……。
お気に入りは、八歳の誕生日にもらった縫いぐるみ。左耳にタグのついた、オーストリア製の手工芸品だ。手触りのいい茶色モヘア。うつむき加減の大きな頭。ベークライトの鼻、琥珀色のガラスの眼。短い手脚を突き出して座る。ひらき気味の口からは、甘ったれた声が聞こえてきそう。風呂にこそ連れ込まなかったが、遊びや寝るのはいつも一緒。鞄に忍ばせ、学校へ連れてったことさえあった。
父は日程をやりくりし、家族との時間を捻出した。旅行、キャンプ、遊園地。熊のジェレミーも当然お供した。
その頃は母の愛子も、人形遊びのようにかわいがってくれた。愛らしい服や靴の数々。それらに合わせた美容室でのカット。料理やお菓子、紅茶の淹れ方も教えてくれた。毎朝、髪に丁寧にブラシをあて、父の欧州土産の整髪料で、凝ったウェーブをつけてくれた。
家中が愛らしい雑貨で溢れていた。母のエプロン。木製の豚毛ヘアブラシ。化粧道具入れ。調味料立て。フリルの襞カーテン。料理道具や食器。便座カバーから紙ホルダーまで。自分も素敵な雑貨の一部になった気がした。
母のお腹が大きくなると、お姉さんになる期待でワクワクした。妊婦服や育児用品を一緒に選んだ。やがて弟が産まれた。面倒を見てやれる人形が来たみたいで、嬉しかった。
父の最後の任地は、トツクニスタン共和国だった。百二十万の人口の大半が貧困層。残りは軍人という国だ。特産は果物の乾物と毛織物。昼夜の寒暖差や、雨期乾期の落差が激しい。狭い国土に砂漠と密林が共存していた。陸路はほとんど役に立たない。舗装してもひと月後には泥の道へ戻る。隣国の空港とのあいだを三日おきに往復する、骨董品の双発機だけが頼りだった。停電のない日はない。電話さえ途切れがちで、よく不通になる。メールのやり取りがやっとだった。
出張を命じられたとき、既に政情は不安定だった。外務省の出国勧告ののちも、会社の都合で動けなかった。ちょうど雨期に重なり、季節風で飛行機が飛べなかった。宿泊先のホテルの食堂が爆破され、連絡がつかなくなった。
軍事政権は粛清を、武装組織は報復テロを繰り返した。遺体の山は放置され、伝染病が蔓延した。大国の利害関係ゆえか、取り上げるマスコミはなかった。巻き込まれたのが欧米人なら、事情は違ったろう。実際はごく少数のアジア人だった。中国人、マレーシア人、インドネシア人。それに日本人商社員。
身代金めあての誘拐、または強殺に遭ったとの噂もあった。邦人とはいえ要人ではない。非難すべきバックパッカーでもなかった。地方紙に短い記事が出ただけに終わった。娘に残されたのは想い出と玩具や絵本、それにジェレミー。
「眠れなかった。毎晩ベッドで泣き明かしたわ。彼を抱きしめて……」
母は部屋を飾るのをやめた。化粧や服装の趣味が変わった。車は小型車から、真紅のコンヴァーティブルに変わった。不在がちになった。弟の幸博は、父がトツクニスタンへ赴く半年前に産まれた。母は高校時代の友人に、赤ん坊を預けっ放しにした。
母はやがて週に一度、服や化粧品を取りに戻るだけとなった。それも娘が学校にいる昼間にだ。居間のテーブルに残される生活費が、唯一の関わりだった。仁美には信じられない急変だった。一緒に雑貨屋を巡り、服を試着した同じ母とは思えなかった。
仁美は毎日ひとりで簡単な食事をつくった。掃除洗濯や買物をこなした。アイロンがけも憶えた。ガスや水道は停められなかった。銀行の口座に問題はないようだった。
学校では何事もなかったかのようにふるまった。担任に口止めし、陽気にお喋りの輪へ加わった。成績を落とすこともなかった。風邪で熱が出たときは、電話で欠席を伝えた。期限切れの薬を服み、朦朧としつつ、おかゆを作って食べた。
事故が起きたのはその頃だった。
「ママにいったの。『仁美も連れてけば、あんなことにはならなかったのに』って。そしたら『だってあなたは学校でしょ』って……」
九月の快晴の日。愛子は赤ん坊をチャイルドシートに座らせ、沼ヶ岳へ向かった。気まぐれな思いつきだった。
崖に沿って頂上へと向かう道路。かなりの速度が出ていた。母は風にかき消されぬよう、セリーヌ・ディオンを大音量でかけていた。言葉を解さぬ息子に、大声で話しかけた。遠くに海が見えた。
難所として知られる急カーブ。チャイルドシートの取りつけ金具には欠陥があった。車がガードレールに接触したとき、幼い弟は我が身に起きたことを理解しなかったろう。赤ん坊はシートごと車外へ放り出され、崖下へ転落した。
仁美はアルバムを静かに閉じた。水銀灯の青白い光に、羽虫が衝突を繰り返していた。枯葉が乾いた音をたてた。樹々は誘われたように葉を散らした。女子たちは涙ぐんでいた。往来の騒音が高まったように思えた。
僕は仲間からはぐれた一枚の枯葉を見つめた。風に翻弄されていた。仁美は巧みな語り手だった。呼吸を間近に感じ、落ちつかぬ気分にさせられた。アルバムを貸してもらい、写真を一枚ずつ確かめた。服で汚さぬよう注意した。
「映ってないね。ジェレミー君」
仁美は伏眼がちに頷いた。「そうなの。海でも温泉でも一緒だったのに。汚したくなくて、バッグからあまり出さなかった」
彼女の整った横顔を僕は見つめた。それなら何のために重いアルバムをわざわざ持ち出したのか。女子たちは情緒に流され、疑問を感じないようだった。違う家に育っていたら、僕だって気にならなかったろう。
「いつ頃なくしたか、見当つかない?」
「すごく落ち込んだ時期があったの。事故の直後は慌ただしくて、哀しむ余裕もなかった。ママはまた家に寄りつかなくなった。そしたらジェレミーを見るたび、いろんなこと考えちゃうようになって。クロゼットの奥にしまったの。ようやく平気になって、ひさしぶりに逢いたくなった。それで——」
「いないのに気づいた。クロゼットはそれきり一度も?」
「ううん。服とかあるから。でも彼のほうは見ないようにしてた」
「勘違いじゃ? 別な場所にしまったとか。掃除で動かしたとか」
「家中捜したわ。どうしても見つかんない」
「他になくなったものは? 貴重品とか」
「ジェレミーだけ。盗まれたとは思えない。アンティークみたいな価値はないの」
「中に何か隠されてたとか。国家機密や宝の地図なんか」
仁美は笑みらしきものを見せた。過去について話しはじめてから初めてだ。「パパはただのバイヤー。諜報員じゃない」
「お母さんがどこかに持ってったのかも」
「棄てちゃったって意味? 昔は確かに掃除好きだったけど……」
僕は鎖を軋ませて立ち上がった。「わかった。見かけたら教えるよ」
仁美は顔を輝かせた。「引き受けてくれる?」
「捜すとはいってない」空気がまた緊迫した。慌てていい直した。「見つけてあげたいのは山々だよ。でも僕は今、微妙な立場だ。近づくのは君の評判によくない」
「マロ君はそんな人じゃない!」仁美が立ち上がり、ブランコは揺れた。「みんなにどういわれようと関係ない。噂するほうが悪いの」
「なんで僕なんだよ。みんな協力してくれるよ。笛捜しのときもそうだったろ」
「あのときだってマロ君が——」
「あれは偶然。ごっこ遊びと現実を混同すんなよ」
「仁美は信じてる」彼女はアルバムを抱きしめて迫った。「お願い!」
互いの鼻先がくっつきそうな勢いだった。僕はあとずさった。熱っぽく潤む黒檀色の瞳がすぐそばにあった。唇は寒さで赤みを増し、ジェリービーンズを思わせた。
目の前の美少女と玲子の妹が重なって見えた。ふたりの期待は非現実的に思えた。持ち込む先もお門違いだった。
正義感にかられた女子たちが、輪を狭めた。背後の大女の鼻息を感じた。反射的に身をすくめ、両手で頭をかばった。顔から火が出た。同級生らの前で普段の癖を露呈してしまった。
仁美が眼で制するのがわかった。女子たちは渋々と力を抜いた。我が校のアイドルは、昂ぶりを恥じるかのように微笑んだ。「今すぐなんて無理よね。あした学校で聞かせて。いいお返事待ってる」
朝のお勤めが長引き、登校が遅れた。教室のざわめきが廊下に響いていた。戸を開けるなり、水を打ったように静まり返った。視線が集中した。植田次子が噂を広めたのを知った。
仁美は自席で側近に囲まれていた。黒ハイネック、タータンチェックのミニスカ、黒ハイソックスにモカシン。髪はカラスの羽根のモップのように見えた。
視線の束を引きずるようにして、僕は教室を横ぎった。鞄の中身を机に移した。鞄を棚に突っ込んだ。席に戻るついでに挨拶した。「おはよう。ジェレミーはまだ見つからない?」
波紋を呼んだ。教室はざわついた。仁美は当惑気味に微笑した。外国語で話しかけられたかのようだった。「マロ君が捜してくれるのよね……?」
「もう断ったと思ったけど」
教室の空気がはりつめた。仁美は眼を見ひらき、茫然と呟いた。「ひどい……信じてたのに!」涙が朝露みたいに溢れた。彼女は机へ突っ伏し、華奢な腕に顔をうずめた。くぐもった啜り泣きが聞こえてきた。
ブラジルが現れなければ、どうなっていたかわからない。彼は仁美を一瞥しただけで、何も触れなかった。「どうした日直」
雷に打たれたように号令がかかった。椅子の地響き。挨拶の唱和。仁美は立たなかった。ブラジルは何もいわなかった。誰もが怖気づいたかのように、見て見ぬふりをした。
噂は校内を駆け巡った。仁美の行動も拍車をかけた。二時間めの休み時間、気分が悪いと保健室へ行ったのだ。午前中をそこで過ごし、結局は早退することになった。教室は休み時間のたびに、低い囁きで満たされた。非難がましい視線も向けられた。
「仁美ちゃんを泣かせるなんて」
「血も涙もない奴」
「人殺しの癖に」
体育は走り幅跳びだった。順番を待つあいだ、校舎の窓という窓から視線を感じた。給食でもひどい目に遭った。配膳係の誰かに、チョークの粉をトッピングされた。
昼休みに校内放送の呼び出しがあった。「五年二組の縁辺丸夫君。至急保健室へ来てください」
保健室は一階のつきあたり、便所の向かいにあった。僕が顔を出すと、小岩井先生は椅子ごと振り向いた。事務仕事を中断させたようだ。やはり男っぽい座り方に思えた。「元気にしてる?」
僕は回転椅子へ勝手に座った。部屋は消毒薬の匂いがした。「良好です。フラッシュバックもないし、襲われそうな感じもしない」
「ショックが大きすぎて麻痺することもあるわ。つらかったら我慢しないで話すのよ。中山仁美さんと何かあったの?」
「そんな色男に見えます?」
小岩井先生は笑った。眼はどこか気遣わしげで、不安の色を湛えていた。
「失せ物捜しを断ったんすよ。無理だって」
「聞いたわ。名探偵らしいね」
「みんなどこまで本気なのか、わからなくなりますよ」
「あの子、可愛いでしょ。拒絶された経験が少ないのよ。あんまりつれなくしないであげて。他人が口出しすることじゃないかもしれないけど……」
僕は赤ビキニの母親を想い浮かべた。拒絶。「でも家中捜したらしいですよ。僕に発見できるわけがない」
「そうじゃなくて……あの子、仲良くしたいのよ。マロ君と」
「何を根拠に」
「長年の経験よ。あの歳ごろの女子にはよくあるの。抑鬱に知恵熱。典型的な症状だわ。男子にはピンと来ないかな」先生は身体測定の器具のむこうへ視線をやった。寝台は二つともカーテンがあいていた。片方には枕に浅い窪みがあり、シーツに皺が寄っていた。
僕は何かが腹の底からこみ上げるのを感じた。いかに大人は子供の世界を知らないことか。気がつくと声をあげて笑っていた。
「余計なお節介だったかしら」
「誰もお嬢の代わりにはなりませんよ」
伝染しかけた笑みが、先生の顔から消えた。冷水でもぶっかけられたみたいだった。
「ブラジルから聞いたんでしょ。確かに、早く他の子とつきあって忘れるべきかも。お気遣いには感謝します」
「あなたまだ子供なのよ。何かあれば遠慮なくいらっしゃい。用はそれだけ」
僕は立ち上がってお辞儀し、部屋を出た。険しい視線を背中に感じた。
美少女はカルトの子とは対照的だ。誰もに愛される。帰りの会のあいだ、教室中が目配せしあっていた。妙だとは思っていた。掃除へ向かおうとすると包囲された。
「おいマロ。最近ちょっと勘違いしてんじゃねえか」タカケンは眉根を寄せ、腕組みしていた。
「仁美ちゃんに謝んなさいよぉ」学級委員の坂崎淑子が、強気にいった。額が広くポニーテール。眼鏡をかけていた。
「可哀相だろ。名探偵だからって、いい気になるな」ユーチャンが口を尖らせた。親鳥に餌を求める小燕を思わせた。
「捜し物は得意じゃなかったのかよ」芋の長介が調子っぱずれな声を発した。
「ちょちょっと見つけりゃいいんだよ。簡単だろ?」小柄でおかっぱの小島文江がいった。
周囲から賛同の声があがった。クラス全員が、掃除道具や鞄を手に、遠巻きに見つめていた。植田次子は五人の背後に仁王立ちしていた。小島はなおもいった。
「それとも噂は本当なのか。おめえが殺ったのかよ。お嬢を小刀で」
「動機がない」
「決まってんじゃねえか」文江は歯を剥き出し、得意げに笑った。それから遺体の活用法を列挙した。僕は思わずその顔を凝視した。
日頃のんびり屋の長介はわめいた。「やってないなら証明しろよ。正々堂々と」
外野が賛同の声を発した。タカケンは前歯をさらに突き出した。「弁明の機会くらい与えてやんねえとな。お前に試験を課す」
「ジェレミーを見つけたら本物の名探偵と認めたげる」学級委員の眼鏡と額が光った。「見つけられなかったら……」
小島文江が陰険に笑った。「お前は嘘つきってこと」
ユーチャンが僕の胸元に太い指を突きつけた。「つまり殺人犯だ!」
「そんな無茶な……」
植田次子がとどめを刺した。「これはチャンスだよ。名誉を挽回したくないのか?」
教室中が静まり、僕の回答を待った。
掃除の騒音が遠く聞こえた。喧しい会話や笑い声。帰りの会が長びいたクラスの、挨拶と机を下げる音。女子たちの軽やかな挨拶。廊下を行き交う足音。校舎の上空をヘリが横切った。腹に響く断続的な低音が、はりつめた空気を慄わした。
むっつりと腕組みするタカケン。懸命に睨み据える学級委員。唇を尖らすユーチャン。義憤に燃える長介。ニヤつく小島文江。みんなの重苦しい視線の圧力……。
窓ガラスの細かい振動を残し、ドップラー効果の音は遠ざかった。どこかで女子の甲高い笑い声がした。

「ここにあったの」
クロゼットのハンガーには、高価そうなお洒落着が並んでいた。算数セットの上に靴箱が積まれていた。さらにブーツが二足。画用紙の筒には、平仮名の名前が鉛筆で記されていた。
級友らの脅迫が脳裏をかすめた。熱心に調べるふりをした。ほのかに香水の匂う服。多くは学校で見た憶えがなかった。箱の中も確かめた。真新しい靴。蓋をして戻した。
「いつ買ってもらったの」
「憶えてない」
「小さくなった服はどうした」
仁美はきょとんとした。大きな眼をしばたたく。
「一着、一万はするだろ。親が置いてく金だけで?」
「古着もあるし。いつも余るから……」
父親と弟の血が化けたというわけか、と僕は思った。
仁美は僕の手をとり、覗き込むように見つめてきた。「手がかりは見つかった?」
「なくしたときのことを教えてくれ。なるべく詳しく」
僕はそっと手をほどいた。仁美はかすかに息を呑み、自分の手を見下ろした。睫毛を慄わせ、呟くように話した。
「もう全部話したと思う。一度も見てないの。奥にしまったきり」
「どうしてたの? 服を選ぶときとか」
「見ないようにしてた。掃除のときも。服ってすぐ着れなくなるでしょ。何度か思い切って片づけたの」
「そのとき間違って棄てたとか」
「それも考えたけど……」
「だよな」
「ずっと放ったらかし。あの子は何も悪くないのに。もっと気にかけてあげてれば……」仁美は顔を背け、指先で涙を拭った。こっちが泣きたかった。
この家を訪れてから十分と経っていなかった。六人組に連行されてきたのだ。晴彦は遠くから僕の姿を認めたようだったが、寄りつかなかった。危険を察したのだろう。
赤い西洋瓦の屋根。ベージュの壁。板チョコのような質感のドア。シャッターの下りた車庫。小じんまりとした二階建て家屋は、デンマーク製のブロックを思わせた。伸び放題の雑草や、蜘蛛の巣にさえ気づかなければの話だが。芝生や花壇は、明らかに手入れが必要だった。
「この家に住んでるのかあ……どの窓が仁美ちゃんの部屋かな」芋の長介が、切なげな溜息をついた。
「おお愛しい人。どうしてそんなに可愛いのぉ」とユーチャン。笑窪のある両手を、二階の窓へ差し伸べた。ハムレットは実際には肥っていたという。僕には信じられなかった。
「あたしたち何度も遊びに来たもんねっ」
「ねーっ」
淑子と文江が頭を傾げあった。
植田女史に肩を押された。僕は門柱の呼鈴を押した。遠くで涼しげな音が聞こえた。答えはなかった。みんなの顔色をうかがった。六人は険しい顔で頭を振った。再びボタンを押そうとした。
インターフォンが「はい」といった。仁美だ。
「マロだよ。今朝はごめん。手始めにクロゼットを見せてほしい」
接続が切られ、鍵が外された。ドアがわずかに開いた。仁美が隙間から窺っていた。中は暗く、表情まではわからなかった。
「何グズグズしてんだ」
「早く行きなさいよ」
小声で口々に追い立てられた。学級委員が錬鉄の門扉をあけた。誰かに背中を突き飛ばされた。コンクリートの小径へよろめき出て、ドアの前で止まった。泣き腫らした眼と視線が合った。仁美は唇を噛んで足許を見つめた。
「入って」
抑揚に欠けた声が聞きとれた。仁美は階段へ消えた。僕はみんなの顔色をうかがった。
「明日報告しろ」
タカケンはそういい棄て、踵を返した。長介と文江が、不信の眼で振り返りつつ続いた。学級委員は去り際、几帳面に門を締めた。植田次子は脅しの言葉を残した。
「二人きりだからって妙な真似すんなよ」
玄関は空気が澱んでいた。つくり自体は、採光も風通しも悪くないように思える。薄暗いのは天気のせいだろう。敷物とスリッパはいかにも雑貨屋で扱ってそうだ。靴棚の上にはレース編みと花瓶。ドライフラワーはうっすら埃が積もっていた。スリッパを借りた。
フローリングの廊下は、隅に埃が転がっていた。階段や二階も同じだった。子供ひとりでは掃除が行き届かないのだろう。わずかに開いた扉の前にスリッパがあった。室内は見えない。
女子の部屋に入るのは初めてだ。落ちつかぬ理由がもうひとつあった。なぜか記憶がよぎったのだ。埃の踊る高窓からの光条。静かに揺れる裸足の爪先……。
教団の敷地には蔵があった。挺身員のひとりが入っていく。何かが気になって後をつけた。重い扉を開けると彼女は、梁にかけた縄で頸を吊っていた。軋む縄、揺れる脚。弛緩した身体から汚物がしたたり、顔は醜く膨らんでいた。
母の死と同じ頃の話だ。それ以来、誰かの後ろ姿を見るたびに不安に駆られるようになった。
ノブに手をかけ、踏み込んだ。仁美はまるでそこが自分の部屋でないかのように不安げに佇んでいた。高さが調節できる学習机と椅子。その脇のラックにはプリンター、CRT一体型の赤いコンピューター。紅茶色の羽根布団のかかったベッド。マニキュアや乳液の並ぶ鏡台。襞とフリルのカーテン。
少年アイドルのポスターも縫いぐるみもなかった。つくりつけの書棚は空白が目立った。教科書や参考書。外国の絵本。少女漫画とハリー・ポッターが数冊。浜崎あゆみのベスト盤が一枚。あとは子供向けファッション誌だった。
「今朝はごめん。自信がなかった。傷つけるつもりじゃ……」
「いいのよ」仁美はぎこちなく微笑し、フローリングの床を見つめた。スカートの前でより合わされる指。裾丈の短さに気づかされた。膝は一度も擦りむいたことがないように見えた。
「あの」
ふたり同時に声を発した。
「お先にどうぞ」
「マロ君から」
「ジェレミー君を最後に見たのは?」
仁美は顔を輝かせた。頬を染めてクロゼットをひらき、服をかき分けた。「ここにあったの」
……そうしてインチキ探偵は依頼人を泣かせたのだ。
「で、さっき何いおうとしたの」本当は興味などない。座って休みたかった。
仁美はまた涙を拭った。「仁美のことどう思う?」
「どうって」
「すかしてて厭な女とか……」
似つかわしくない言葉に戸惑った。昔の不良みたいだ。「何いってんだよ。全校生徒のアイドルが」
仁美は頭を振った。うつむいて指先で唇をいじる。「確かにみんな親切よ。でも……」
「不満はないだろ」
「本当の友達がいないの」かろうじて聞き取れた。
「植田は? 親友だろ」
「すごくいい子よ。色々心配してくれて」仁美はそこだけ顔を上げ、はっきりいった。それから語調が尻すぼみになった。「でもほんとの悩みはいえない。ひかれちゃう」
「まさか」
「それが女の友情。表面だけよ」
そんなに簡単に切り棄てるのか。「ないよりマシ。羨ましいよ」
「いつも一緒の子は? 眼鏡の」
「晴彦ね。勝手に親友と思い込まれた」
「慕われてるのね」
「君ほどじゃない」
愛らしい顔に、笑みが浮かんで消えた。仁美はまた視線を逸らした。「寺井さんは」
「気の毒だと思ったよ。なんで」
「綺麗なひとだった」
「ああ」思わず声に苛立ちが滲んだ。小熊のジェレミー君はどうなった?
「特別な関係だったのよね。ずっと見てればわかる」
「ただの友達だ。いや、だった」
僕は相手の顔を見つめた。彼女は伏眼がちに顔を赤らめた。眼を剥いて舌を垂らし、シンバルを打ち合わせて小躍りすべきだったろうか。井上長介やユーチャンならそうしたろう。母があんな女でなければ、僕もそうしていたはずだ。
仁美はベッドに腰を下ろした。窓の外を見つめて呟いた。「マロ君と仁美、どこか似てると思う」
「みんなが聞いたら驚く」
仁美はこっちを見上げた。今度は屈託のない笑顔に見えた。「ね。友達いない同士、友達にならない?」
「もう友達だよ」
いい終えぬうちに表で車の音がした。電動シャッターが唸り、エンジン音がやむ。玄関で物音。仁美の顔から笑みが消えた。声も平板になった。「ママよ」
仁美の母親は慌ただしく出ていった。窓に近づいて見下ろした。赤いコンヴァーティブル。三十代前半の美人が、運転席に見えた。芸能人風のサングラス。胸元のあいた真紅のボディコン風スーツ。派手なアクセサリー。口許のホクロまでは見えなかった。
確かに写真とは激変していた。実際にどこかで逢った気がした。赤ビキニの印象が強烈だったせいか。
調査カウンターで黒沼さんに相談した。縫いぐるみの熊について知りたいが、何を読めばいいか。タッチパネルの蔵書検索より、彼女に訊くのが早くて確実だった。
黒沼さんは端末の画面を見せてくれた。一覧が表示されていた。
『テディベアのすべて 縫いぐるみ図鑑』
『大好き! テディベア』
『くまのパディントン』
『親子でつくるテディベア(型紙つき)』……などなど。
絵本と手芸本は除外。開架や書庫から、あとの数冊を捜してきてもらった。ざっと流し読みした。
『大好き!』は愛好家の随筆だった。『図鑑』の背には館内閲覧用のシールが貼られていた。奥付を確かめた。バブル時代の発行。内容は骨董的価値のあるものが中心。三年前の製品は載っていない。
「他館にはもう少しあるけど。取り寄せる?」
「結構です。ありがとう」
「ウェブのほうが詳しいかも。世界中に熱心なファンがいるから」
携帯電話やインターネットの普及から数年たっていた。教団には現代社会に適応できない人々が吸い寄せられた。そこでは外界との接触につながるようなものは忌避されていた。
「文明の利器とは縁遠い生活なんで」
「今時の小学生には珍しいわね」
黒沼さんのセーターは、体の線を際立たせた。仁美が着てたのとよく似ていた。筆ペンで描いたような眉を、彼女は吊り上げた。前かけの左胸の名札をいじった。「傾いてる?」
「いつも黒い服すね。名字に愛着でも?」
「派手な色だと、利用者の迷惑でしょ。好きなの? 縫いぐるみ」
「捜しものを頼まれたんです。実物を知らないんで、写真だけでもと」
黒沼さんはカウンターに両肘をついて身を乗り出した。はかりごとの相談のように声を低め、悪戯っぽい目つきでいった。「シュタイプの縫いぐるみなら、うちにもあるけど」
「最近のモデルなんです」
「見せたげてもいいわよ。遊びに来る?」
僕は住所と指定された日を暗記した。メモをとる習慣はなかった。父にいつ持物検査されぬとも限らない。本でさえ鞄の底板に隠して持ち歩いていた。
翌日から熊捜しに奔走した。
校内も隈なく捜した。「教室にこっそり連れてったことがある」と仁美が主張したからだ。休み時間のたびに視線を集め、嘲笑された。「行ったかもしれない場所」は無数にあった。女子トイレ。屋上の入口。使われなくなった焼却炉。体育倉庫の裏。ごみバケツの中まで捜させられた。
意味があるとは思えなかった。仁美の話は辻褄が合わず、しばしば二転三転した。新手のイジメのように感じた。
放課後は自宅から教室までの道筋を、舐めるようにたどった。車や自転車に撥ねられそうになり、通行人にぶつかって罵声を浴びた。猫の往来する塀から、枯葉の詰まった側溝まで捜した。
彼女の言葉を心から信用してはいなかった。にも関わらず、いわれるままに翻弄された。母の死を、お嬢の孤独に添えなかった後悔を埋め合わせたかった。
中山家の書棚に隠し扉はなかった。学習机の抽斗を抜き出した。色とりどりの下着と格闘し、子供用ブラの存在を知った。借りたペンライトで、家具と壁のあいだの埃を照らした。枕を持ち上げ、羽毛布団をめくった。階段と廊下を這い進み、居間も捜した。
台所は惨憺たる状況だった。流しの残骸に熊が潜んでいたとしても、僕は驚かなかったろう。調味料入れの中身がこぼれて散らばっていた。腐臭がした。
捜すためには片づける必要があった。気づくと大掃除になっていた。捜索の失敗が明らかとなるにつれ、家は輝きをとり戻した。中山家の主婦は、堕落する前は凝り性だったようだ。清掃道具は充実していた。外国製の洗剤はよく落ちた。
不要物を片端からゴミ袋に入れた。読まれなかった新聞の束を、ビニール紐で縛った。食器を洗って片づけた。期限切れや痛んだものを棄てた。床を掃いて拭いた。換気扇やコンロの五徳を湯煎した。レンジフードや流しを、顔が映るまでにした。薬剤を補充し、便器や浴槽を磨いた。空容器や錆びた剃刀を棄てた。タオルを交換した。目地や排水口と格闘した。臭う洗濯物に顔をしかめた。洗濯乾燥機を大活用した。
「マロ君すごーい」
仁美に賞賛され、我に返った。僕はブラウスにアイロンをかけていた。当初の目的は忘れられていた。
僕の探索は日常風景となり、誰も気に留めなくなった。昼休みに一階の便所前を捜していると、電柱みたいな影が近づいてきた。ブラジルは膨れあがった書類ばさみを抱えていた。こっちには便所と保健室しかない。何しに来たのだろうと不審に思った。
一年生が追いかけっこしていた。担任の脚にぶつかった。紙束が宙を舞い、あたり一面にぶちまけられた。当て逃げ犯たちは書類を踏みつけて走り去った。
小岩井先生が保健室から出てきて、拾い集めるのを手伝った。膝を擦りむいた女子が、心細げに作業を見つめた。医療的な処置は手伝いかねるので、回収作業のほうに加わった。
文章がぎっしり印字されていた。一枚が眼に留まった。題名らしい。『詩人は歌うか死ぬしかない』
ブラジルは這いつくばって原稿をかき集めていた。財布を落としたときでさえ、こんなうろたえぶりは見せなかった。日頃の威圧感は微塵もなかった。ほかの生徒には見せたくないと思った。
信者の道着を洗うのも、同級生の下着を洗うのも僕には大差なかった。感覚が麻痺していたのだ。仁美にはどこかズボラな面があったようだ。あるいは何らかの計算もあったかもしれない。
休み時間のたび、大勢が彼女を囲んだ。親身な忠告や、気遣いの言葉が口々に発せられた。
「大丈夫? 家でふたりきりなんて」
「危ないよ。何されるか」
「殺人犯かもしんないよ」
「いいの。ジェレミーを見つけるためだから!」仁美は健気にいいきり、僕の方を見た。みんなの視線を誘導するかのように。日増しに膨れ上がる憎しみを肌で感じた。
ブラジルが原稿をぶちまけた日の放課後だった。廊下掃除に取りかかろうとすると、佐藤美佳が、はにかむような笑みで近づいてきた。ショートカット、淡い色のワンピースにカーディガン。踝丈の靴下。仁美よりずっと子供らしく、それがかえって残酷さを際立たせた。
「あとで体育館の裏に来て。大事な話があるの……」それだけいうと、鞄を弾ませて階段へ消えた。
吐き気がした。周囲の囁きや、からかいの声が遠く渦巻いた。ただの偶然だ。悪意で似せたのではない。そもそもあの台詞は、ほかの誰にも聞かれなかったはずだ。そう自分にいい聞かせた。罠だとはわかったが、従わなければ制裁にあうのも見えていた。
それから起きたことは、やはり繰り返しに過ぎなかった。お嬢のときと違うのは、標的が僕自身だったことだ。
恋の告白にしては人数が多すぎた。彼らは武器を手に、銀杏の前で待ち受けていた。植田の姿はなかった。穏健派のユーチャンや長介もいない。踵を返して逃げようとしたが、阻まれた。
遠藤茂太は、竹定規を撫でて笑った。眉は八の字で、口元は歪んでいた。多くの学級を崩壊へと導いた、喧嘩や万引きの常習犯だ。ブラジルが担任になってから、鳴りを潜めていた。鬱憤が溜まってるように見えた。
格闘ゲームマニアの友部康之。風切り音を口から発し、拳を繰り出していた。通販で買ったナックルをはめ、カンフーの達人になりきっていた。顎が長かった。
バットを支えに屈伸運動するのは須藤純一。カズシゲという綽名があった。牛島則夫は、妖怪「塗り壁」を思わせた。いわば植田の男版。手ぶらで充分だった。
女性陣も侮れない。噂話に眼のない吉本塔子。綽名はキリコ。興奮も露わに、箒を構えていた。屁っぴり腰だ。
小島文江は跳縄を手にしていた。教団でしばしば眼にする種類の、残忍な笑みを浮かべていた。牛島と同じ量販店のスエットだ。本人は気づいていないらしい。黙っててやることにした。
佐藤美佳は頬を赤らめ、モジモジした。テニスラケットを握っていた。照れてるのではない。笑いをこらえてるのだ。
「捜査はどうなってる。経過を報告してもらおうか」ぱしっ。ぱしっ。タカケンはバットで軽く掌を叩いていた。案外、指導力があるようだ。ただのお調子者ではなかった。
「手は尽くしてる。もう少し待ってくれ」
「いつまで待たせるつもりだ。警告したろ」
「仁美ちゃんの気持、考えてみたことあんのか?」友部が叫んだ。いいがかりとはいえ胸を打たれた。人間的な思いやりからの行動なのだ。「ずっと待ってんだぞ。疑いもしないで。可哀相に……」
「ただなくしたとは思えない。盗まれたとしか……」
「碌に捜すつもりもないくせに。探偵ぶってんじゃないわよ!」吉本は勝ち誇るように叫んだ。
「中山さんと対等に口きくのが間違ってんのよ」小島の声は陰険だった。愉しんでるのがわかった。あるいはこの女が扇動したのかもしれない。
「デレデレしやがって。俺なんかなっ。眼が合ったことさえないんだぞ!」茂太は涙ぐんでいた。僕は顔にかかった唾を袖で拭った。
「俺こないだ『おはよう』っていわれたぜ」
友部が得意げに胸を張った。カズシゲは負けじと宣言した。
「仁美ちゃんは僕と結婚するんだ」
僕は早口に抗弁した。「犯人は仁美の偏執的なファンだと思う。犯行が可能だった人物を特定して——」
「四の五の抜かすな。俺たちゃ結果が欲しいんだよ!」茂太は悲鳴みたいに叫び、僕の胸を突き飛ばした。
文江は僕の背中から鞄を剥ぎとり、銀杏の向こうに放り投げた。中身がぶちまけられた。またも既視感に襲われた。
タカケンをはじめ、男子たちの動機は明白だ。だがこの女はどうして僕に執着するのか。本当に仁美を慕ってるのかさえ怪しく思えた。遺体の冒涜に詳しかったのを、急に想い出した。
まさかこいつが? 愉しみを得るためだけにやった。快感が忘れられず、僕を標的にして再現しようとした。特定されないように他人を巻き込んだ……。その考えがよぎったのは一瞬だった。タカケンの叫びが合図だった。輪は一気に狭まり、獲物を呑み込んだ。
「この殺人者め!」
四方八方から飛んでくる手足。頭がラケットの網を突き破った。転がされ、足蹴にされた。跳縄で鞭打たれた。頭を抱えて背中を丸めた。バット二本はこたえた。竹定規は刀みたいに食い込んだ。
まともな人間なら、骨が砕け内臓が破裂していた。教団での経験が役立ったのはこのとき限りだった。被害を最小限に留めるコツを、知らず知らず体得していたのだ。
箒だけはまったく害がなかった。おそらく塔子は遊びの延長と捉えていたのだろう。怖くなったのか、最後には遠巻きに傍観していた。対照的に美佳は喜悦の表情だった。眼が潤み、頬が上気していた。
襟首を掴まれ、引きずられた。放課後のクラブ活動のため、体育倉庫は錠前が外されていた。鉄の引き戸は立てつけが悪かった。黴臭い小屋に、僕は弾みをつけて放りこまれた。打ち放しの床へ体が叩きつけられた。石灰混じりの砂埃が舞い上がり、弱々しく噎せた。起き上がる力はなかった。無理に立たされた。
跳箱にマットが立てかけられていた。それが広げられ、僕の視界を覆った。簀巻きにされたのだ。反射的に上を向き、窒息を免れた。マットごと突き飛ばされた。何かに受け止められた。引き戸が閉ざされ、錠前のかかる音がした。嘲り笑いと足音が遠ざかった。
戻ってくる気配はなかった。黴臭いマットからもがき出た。眼が慣れてきた。戸の隙間から光が漏れていた。野球道具を突っ込んだ木箱。白線引き。運動場をならす鋤に似た道具……。運動会で転がす大玉に、マットは乗り上げていた。
扉を試した。ビクともしない。体当たりをする元気はなかった。マットに腰をおろし、体力の恢復を待った。全身が痛んだ。痣はしばらく残るだろう。換気口に蜘蛛の巣がかかっていた。あの高さの覆いを外せたとしても、抜けられるのは痩せた鼠くらいだ。
暗がりを物色した。ガラクタを詰めた段ボール箱があった。湯川みたいな奴が他にもいたのだ。空気の抜けたボールの下から、曲尺と石を発見した。戸の隙間に曲尺を挿し入れた。金具にひっかけ、石を叩きつけた。金具は数回で外れ、錠前が地面に落ちた。戸を開ける方がむしろ骨だった。
石には絵の具で顔が描いてあった。低学年の子からのプレゼントだろう。教師が処分に困り、それきりになったのだ。誰とも知らぬそいつに感謝した。
鞄の中身は、腐った実の上にぶちまけられていた。一部は側溝の泥に浸かっていた。かき集めるうち約束を想い出した。普段とは逆方向を目指した。
すれちがう大人たちの反応は様々だった。ギョッとする。表情を変えずに遠ざかる。無遠慮に見つめる。体をすくめて避ける。信号待ちの車からも、視線が突き刺さった。気遣いの声をかける者はなかった。
歩道橋を渡り、交差する道路で三角州になった公園を横ぎった。鳩の群れが誰かの撒いたスナック菓子をついばんでいた。僕の姿に驚いていっせいに飛び立った。かつて家具の専門店街だったという、予備校や専門学校の密集地を抜けた。煉瓦を模した外装のワンルームマンション。個人経営のカフェと、自然食品店に挟まれていた。
部屋番号を見つけて呼鈴を押した。インターフォンから返事があった。玄関ドアの自動錠があいた。エレヴェーターを降り、部屋の呼鈴を鳴らした。
黒沼さんは文庫本を片手に出てきた。指をしおり代わりにしていた。黒いセル縁の眼鏡をかけていた。上は黒いスウェット、下はジャージ。裾から銀のペディキュアが覗いていた。マニキュアをしないのは職業上の理由だろう。カウンターで見る印象より背が高かった。彼女は眼を丸くした。
「どうしたの」
「同級生たちに恨みを買いまして。熊の件で」
「まずお風呂ね」
脱衣所へ強引に案内された。抵抗する間もなく上衣を奪われ、シャツも剥ぎ取られた。ジッパーが下ろされるに至り、彼女の手を押さえた。教団では何が起きても驚かないが、外でこんな目にあうとは思わなかった。暴行にあってから初めて、恐怖のようなものを感じた。
「何恥ずかしがってるの。子供の癖に」
黒沼さんの手が躊躇なく下ろされた。下着を引き抜くついでに彼女は靴下まで奪った。それらはまとめて洗濯乾燥機へ放り込まれた。彼女は眼鏡を外し、裾をまくり上げて、僕を浴室へ追い立てた。自分でやれるとの主張は無視された。全身を泡だらけにされた。傷口に染みた。
尻や背中の古い疵痕について、彼女は何もいわなかった。
「折角のお休みを邪魔してすいません。いつもはコンタクトですか」
黒沼さんは僕の前に屈み込んでいた。手が止まっていた。僕は彼女の名を呼んだ。彼女は我に返ったように、シャワーで泡を流しはじめた。手つきがぎこちなかった。
「大丈夫ですか。熱でもあるんじゃ……」
「気のせいよ」
清潔なタオルで体を拭いてもらった。洗面所の鏡にギョッとした。唇が切れ、片方の瞼が腫れあがっていた。痣と擦り傷だらけだった。眉の薄さと相まって、恐怖映画の怪物を思わせた。教団では外からわかる傷を負うことは滅多になかった。
黒沼さんは眼鏡をかけ直し、書棚から薬箱を取り上げた。ベッドに座り、隣をぽんと叩いてみせた。おとなしく従った。木製の薬箱は、幾何学的に整理されていた。何かを取り出すごとに組み直す必要がありそうだった。彼女は脱脂綿をピンセットで挟み、消毒薬を含ませた。「染みるかも」
「平気ですよ」
脱脂綿が触れるたび、痛みが走った。僕は話題になるものを捜した。無駄なもののない部屋だった。書棚は文字通り、本が隙間なく詰め込まれていた。液晶テレビを中心とした、簡素なAVシステム。映画や音楽のソフト。ベランダ側の窓には、灰色のカーテン。机には白熱球のスタンド、林檎のついた銀色の薄いノート型コンピュータと、同じ色のプリンター。
出窓にはサボテンの鉢植とTレックス。尻尾にタグがあった。
「ごめんねー。熊じゃなくて」
黒沼さんは治療に専念していた。僕は縫いぐるみを手にとった。タグは金色の鋲で尻尾に留めてあった。注意書きは独語のようだった。尻に穴があいていた。
手にはめてみた。口を動かし、作り声で挨拶した。「やあ、美人のお姉さん」
「限定商品なの。一昨年のクリスマスの」
「熊もこうなってんですか」
「それは特別。シュタイプのマペットは珍しいの。恐竜映画のタイアップ」
黒沼さんは脱脂綿をメッシュのごみ箱に棄てた。道具を片づけるついでにカーテンをひいた。体を寄せて座り直し、僕を握り締めた。何をされているのかわからなかった。
「鬱血してるわ。熱っぽい」
「そこは何ともないと……」
「いい方法知ってるけど、試してみる?」
「痛みにも効きますか」
「努力次第ね」
指導はすぐに必要なくなった。防音は悪くない建物に思えたが、それでも住民全員の不在を願った。どうしたらいいかわからず、やめてくれと懇願されるまで続けた。
「普通はこうじゃないのよ」やっと口を利けるようになると、彼女はいった。最初の絶頂で全身が桜色に染まっていた。
「体がまだできてないんですよ、きっと」
小説で読むような充足感は得られなかった。手が届きそうで届かない。そんな焦燥感と疲労ばかりが残った。濡れたゴムを苦心して外した。いつかサイズの合うものを手に入れようと誓った。
黒沼さんは猫が欠伸するようにいった。「喉が渇いたわ」
台所の戸棚にはふたり分の食器があった。そういうものなんだろうか。封の切られた避妊具の箱を想い出した。冷蔵庫のスポーツ飲料を、グラスに注いで手渡した。「大量の水分を失いましたからね」
「ばか」彼女は気怠げに体を起こし、胸元に布団を引き寄せた。グラスをひと息に干す。
痛みは確かに忘れた。書棚からディックの『戦争が終り、世界の終りが始まった』を抜き出した。黒沼さんの面白がるような視線に気づいた。下着に収まる大きさに戻っていた。顔が熱くなった。
「便利ね。避妊の必要がないわ」
「それは違うんじゃ……」
「興味があるならそれ、貸したげる」
「すげえ。どうも」
「本を借りるほうが嬉しそうね」
黒沼さんはカタログを印刷してくれていた。公式サイトに十年分があったという。ざっと眼を通した。説明に合致するモデルはなかった。仁美に訊き直すことにした。
銀縁の丸い壁時計は、五時を過ぎていた。鞄と中身をティッシュで拭った。小さく畳んだ紙束と本は、底板に隠した。黒沼さんは服を繕ってくれた。温もりの残る服に袖を通すと、いい匂いがした。
三十分の遅刻。それよりも負傷のほうが不安だった。どんな事態を招くか知れたものではない。
父上は手かざしの儀を執り行っていた。一回四十九万円也。伏し拝みながら、僕は身を硬くした。拍子抜けしたことに、冷やかに一瞥されただけだった。後で起きたことを思えば、このとき教祖の心中には、暗い策略が芽生えていたに違いない。
食事を済ませ、道場の末席に加わった。手かざしを待つ列には、あの親子の姿もあった。古い血みたいに不幸がこびりついていた。ブランド服が喪服みたいに見えた。似たような母娘が何組も見受けられた。母親らはすがるように教祖を伏し拝み、娘にも同じことを強要した。
少女たちの顔は見ないようにしていた。いつか執務室へ呼び出されるのを僕は知っていた。母親たちには前世の祟りや気の滞りしか見えない。娘から事実を知されても態度は変わらなかったろう。邪悪な妄想と決めつけるか、逆に有り難がるか。父親たちがどこで何をしているのか、僕には知りようがなかった。
父上は老婆の頭上に、節くれだった手をかざしていた。眉間に皺を寄せて即興の呪文を呟く。老婆は勿体なやと感涙し、板の間に額をすりつけた。溜め込まれた金はこうして社会へ還元される。巫女が教祖の額を拭うふりをして、濡れタオルを押しつけていた。しずくが信者には汗に見えるのだ。
僕は彼女から視線が離せなかった。
その頃の僕は、外と内とで気持ちを切り替えていた。教団での日常を社会生活から完全に切り離して考えていた。それですぐには思い当たらなかったのだ。白い肌に映える赤い袴と、同色の口紅。口許のホクロ。砂浜の印象が鮮明によみがえった。
かつてはフリルや襞飾りやエプロンが似合ったこともある女。二階から見たときはサングラスをかけ、外国車のハンドルを握っていた女。
仁美の母親、愛子だった。

校門をめざす子供の群。黒と赤の弾む鞄。騒がしい声。小さな靴に踏み固められる、黄色い堆積物。
僕が登校の列に加わると、男子たちは顔をこわばらせた。女子たちは白い眼で囁きあった。いきなり泣きだす下級生もいた。朝はお勤めで忙しく、鏡など確かめる余裕はなかった。
教室は静まり返った。視線が集中した。罪悪感と不快感の入り混じる空気。タカケンと茂太はまだ来てなかった。小島はあからさまにニヤついていた。ざまあみやがれという顔。牛島は無表情だった。残る四名は青ざめた顔。視線を逸らしていた。
みんなが気の毒に思えた。
好きでこんな人間になったのではない。人類の何割かには、変質者が生じる。その被害でおかしくなる者もいる。善良な人々の暴力性を、変質者はしばしば引き出す。精神科医でさえ加害者に荷担する。暴力や災害、外見や文化の違いによる諍い。それらは必然性もなくただ生じる。それがこの世界であり人生なのだ。
手洗い場の鏡に向かった。みんなの態度は正しかった。僕の顔は放置された真夏の死体を思わせた。教室へ戻った。仁美はお喋りに興じていた。談笑は中断された。彼女は眼を丸くし、息を呑んだ。華奢な手で口を覆った。「どうしたのマロ君……」
「階段で転んだ。見た眼ほどひどくない」
仁美は周囲の態度に戸惑っているようだった。「ほんとに大丈夫?」
「何ともないって……」
今やクラス全員が親衛隊だった。仁美に身を寄せ、励ましていた。遠巻きに眺めるだけだった男子もだ。縫いぐるみの特定はあとまわしにせざるを得なかった。仁美のすがるような視線には、こたえようがなかった。気づかないふりをした。
上井戸はわずかな関心さえ示さなかった。戦場のような授業をやり過ごしながら、僕は放課後を待った。
さよならを唱和して掃除を終えた。
「あのねあのねー」
甲高い奇声。晴彦が追ってきた。無視して図書館をめざした。見憶えのある高級車が近づいてきた。減速した。スモークガラスの窓が下りた。後藤杏がいった。「乗って」
猛獣と変態を天秤にかけ、仰せに従った。晴彦の顔に失望がよぎった。下校中の生徒らの視線を感じた。また新たな噂の種を撒いたわけだ。車は滑らかに加速した。彼らはたちまち過去に置き去られた。
ピエール瀧は杏の足許に丸くなり、居眠りしていた。杏は僕の顔に動じなかった。「イジメ?」
「ほっとけ」
「捜査の進展は」
「別件でそれどころじゃない」
いきなり掴みかかられた。熱い息が顔にかかった。「姉さんは殺されたのよ。どうでもいいの?」
「犯人と疑われて脅されたんだ」
「あなたにわかる? 家族が殺される苦しみが。あなたもパパも口先だけ。ウヤムヤになるのを待ってる。面倒に関わりたくないのよ!」
杏はごっこ遊びに打ち込むことで痛みを紛らせていた。その子供らしいわがままに、梶山氏は寄り添おうと努めていた。僕が求められたのは、混乱に秩序をもたらす探偵役だった。犯人が明らかになったところで家庭は元には戻らない。
「ママもママ。娘が殺されたのよ? パパに文句のひとつもいえないなんて!」
僕は杏の手から逃れ、激しく咳き込んだ。杏は膨れ面で腕組みし、座席にもたれた。視界に色が戻ってきた。窓を開け、対向車が絶えるのを見計らって、乳歯を吐き棄てた。リンチ以来ぐらついてたのだ。ピエール瀧が血の臭いに反応し、頭をもたげた。
風と騒音を締め出し、杏に向きなおった。「飯沢警部は何もいってこない。新事実が判明したとも聞かない。図書館に行く暇なくて、新聞は読んでないけど。この車はどこへ向かってる?」
「お祖父さんのとこ。新作の試食に呼ばれたの。特別に参加させたげる」
車はやがて大きな門をくぐった。鬱蒼とした針葉樹林。ザリガニや食用蛙が捕れそうな、暗い沼。井戸の手押しポンプには枯れ蔦が絡まっていた。玉砂利の振動は、ほとんど伝わらなかった。屋敷の前に止まった。梶山氏がドアを開けてくれた。黒豹が主人より先に滑り出た。勝手知ったるという風に、どこかへ消えた。
車内ではそれまでずっと祖父自慢を聞かされていた。小さなカップ容器入りゼリー。ショートニングを加工した紛い物のヨーグルト。チューブ入りの色つきジュース。それら人気商品の開発者だという。五年前、名誉職を与えられ一線を退いた。
彼の始めたテライ食品は、今では地元有力企業へと成長していた。会社の古い体質を、現社長は改革したがっていた。駄菓子部門は廃止の方向だという。
「今の子供は満ち足りている。もう夢とか滋養とかの時代じゃないんだよ、父さん」
杏は物真似まで披露してくれた。子供にいい含めるような口調だった。僕のリクエストに応じて、祖父も演じてくれた。
「おうおう、よく来たなあ。見るたびに美人になって。さあ上がんなさい。今度のは自信作だ。お気に召すかな。フッフッ」
平べったい木造家屋。瓦屋根は色褪せていた。異様なシルエットが人目を惹いた。鉄筋コンクリートの箱が、横手に張り出していた。異次元の建物が融合したかのよう。科学特捜隊の建物を思わせた。縁側の軒下に、干し柿が吊してあった。
玄関の左脇に表札があった。ホルダーに厚紙を納める型だ。癖のあるマジックの字で「寺井太一郎」と記されていた。その下に、不調和なステンレスのプレート。「テライ児童食研究所」と横に印刷されていた。
黒豹は玄関の前で待っていた。格子と曇ガラスの引き戸が開いた。黒豹は水銀みたいに中へ滑り込んだ。太一郎氏は小柄な老人だった。頬は餡パンみたいに色艶がよかった。孔のあいた靴下に、健康サンダルをつっかけていた。禿の両脇に白髪が残っていた。安物のネルシャツと、タック入りデニム・スラックス。茶色のスウェードのチョッキは、創業当時からの時代物と見えた。
雑誌でディック・ブルーナの写真を見て、サンタクロースみたいだと思ったことがある。太一郎氏はそのふたりによく似ていた。
「おうおう、よく来たなあ。今日はお友達も一緒かい。見るたびに美人になって。さあ上がんなさい。今度のは自信作でね。お気に召すかな。フッフッ」
彼は僕の顔に気づき、眉をひそめた。僕自身はその惨状をすっかり忘れていた。老人はチョッキの裾で眼鏡を拭き、かけ直した。口があんぐり開いた。
「大丈夫かねあんた」
「階段で転んだんです」
老人は梶山氏の顔をうかがった。表情から何か察したようだ。節くれだった手を打ち合わせ、明るい声を発した。
「さっ。アンズ姫とお友達に、とっときの新作をご披露しよう」
子供らの肩に温かい両手をまわした。開発の苦労話を語りかけつつ招き入れた。
張り出した部屋は研究室だった。六畳ほどに雑多なものがひしめいていた。
保温庫。ステンレスの冷蔵庫。フラスコやビーカーの並ぶスチール棚。戸棚には各種の粉、着色料や薬品の瓶。流しに調理道具。ガス台、オーブンレンジ。年季の入ったミキサー。スチールの事務机。バネ式の椅子はビニールが破け、絶縁テープで補修されていた。白衣が背にかけられていた。
書棚はぎっしり詰まっていた。化学の専門書から、料理や菓子づくりの入門書まで。半数近くが横文字だった。ウムラウトの付いた文字も見えた。多くが黄ばんで分解寸前。カバーのない『あさりちゃん』の二巻が紛れていた。
小さな食卓には透明のクロス。コーヒーメーカーが抽出を終えた。ピエール瀧は皿を前趾で押さえ、青いアイスキャンディーを舐めていた。
太一郎翁は客にパイプ椅子を勧めた。カラメルのない焼プリンを並べ、男ふたりにコーヒーを注いだ。僕は杏の向かいに座った。老人は孫娘にも数滴注いでやり、ポットのお湯を足した。彼女はむくれた。
砂糖とミルクについて尋ねられ、どちらも断った。梶山氏は訊かれなかった。ブラックと決まってるようだ。僕が給食で出るものより強い飲み物を口にするのは、このときが初めてだった。
「どうぞ召し上がれ」老人は食卓に両手で頬杖をついた。期待に頬が輝いていた。
「いただきまあす」
三人で声を揃えた。スプーンの柄は頭が動物型だった。プリンを口へ運んだ。中からカラメルがとろっと流れ出た。プリンは給食でしか知らないが、これが特別なのはわかった。
梶山氏は眼を細め、ほう、と嘆息した。杏は無関心を装い、「まあまあね」と評した。そしてペロリと平らげた。
太一郎氏はニコニコし、感想を求めた。梶山氏は微笑んだ。「懐かしい味ですね。まだ珍しかった頃の……」
「こういうのをね、カプセルに入れられないかと。透明プラの」
「難しそうですね。食べ方は?」
「蓋を外して、孔からスプーンで。名づけて無重力プリン」
杏がおとなしいと思ったら、文庫版『指輪物語』を読んでいた。書棚にあったらしい。黒豹は舐め尽くした皿を押しやり、毛繕いをはじめた。
話題は創業当時に移っていた。「日本はまだ貧しかった。発育に不可欠な栄養価さえ、満足に摂れん家庭も多かった。滋養豊富で夢のある菓子。しかも安価でと、知恵を絞ったもんだ」
「今とは事情が違いました。原料も輸送手段も……」
「プラ工場の親爺も頑固でな。カップだのチューブだの、わけがわからんかったろう」
「面倒な注文を受けなくても、好景気でしたから」
「店に置いてもらうまでが、またひと苦労。毎日、暗くなるまで頭を下げてまわった」
「喧嘩も随分いたしました」
「あの時期が一番やりあったな」
「お年寄りが多かったですからね。商品を説明してもわかってもらえない。やっと置かせてもらったら、容器が欠陥品……」
「食べ物をずいぶん粗末にした。配合を間違えて大損したことがあったな」
「糊として売れないかと本気で相談しましたね」
「『テラちゃんビスケット』を憶えてるか?」
「あれは残念でした。当時の金型では、精度に限界がございましたね。いろは文字の発想は素晴らしかったのですが」
「試作品を近所に配ったっけ。あとで通りかかったら犬に喰わせようとしてた。喰わないんだな、これが」
「ゼリーの時でしたっけ。失敗作をふたりで処分しようとして、腹を下して……」
「あんときゃ参ったな。芳子さんに看病頼んだら『デートの先約が』って」
「本当は弟さんの授業参観だった。彼女、どうしてますかねえ」
「皺くしゃの婆さんさ。曾孫もいるかもしれん」
ふたりは高らかに笑った。それからまた感慨に耽った。
「今の日本は物に溢れています。子供を取り巻く状況も激変しました。よくなったのやら、悪くなったのやら」
「高度成長、バブルを経て、何もかも効率優先になった。子供らに今、必要なのは——」
「心の滋養でしょ」
杏が暗唱するようにいった。発明家は大笑いし、孫娘の髪をくしゃくしゃにした。
「さすがアンズ姫。良くわかっとる」
「いつも同じ話なんだもん」
「歳を取ると誰でもそうなるのですよ、お嬢様」
「『振り返るべき過去がある』ちゅうのは、悪くないもんだ。今にわかるさ」
発明家は読書する孫娘を見つめ、眼をしょぼつかせた。急にただの老人に見えた。「あいつも自分の娘くらい聞く耳を持てばなあ」
「友之助お坊っちゃまでございますか」
「昔は素直で優しい子だった」
「いつまでも子供ではございませんよ。ご自分の考えで経営されたいのでしょう」
「わかってる。譲った会社に口を出すべきじゃない。やかましい親爺にゃなりたくないんだ。でもなあ、あいつは変わったよ。高校で変な友達とつきあうようになってからだ。もう何を考えてるやら見当もつかん。今じゃ直継君、教祖様だっていうじゃないか……」
僕は梶山氏を見つめた。彼は知っていて黙ってたのだ。
太一郎氏は、些細な物事に頓着しない性格のようだ。僕は一度も名前を訊かれなかった。手を振る彼が車の背後に遠ざかるまで、そのことに気づかなかった。
「太一郎様は大層お喜びのようでした。ずっと塞ぎ込んでおられたのです」
「あなたの席、姉さんの定位置だったの」
ピエール瀧は満足げに喉を鳴らした。
「驚きましたよ。親同士が知り合いとは」
「てっきりご存知かと……。玲子お嬢様は何も?」
「それほど親しくなかったんで」
「ご自宅までお送りしましょう」
「図書館で降ろしてもらえます? 信者に見られても困る」
礼をいい、今度は自分でドアを開けた。誰かが僕を呼んだ。その声を聞くと碌なことがない。仁美が息を切らせて駆け寄り、抱きついてきた。待ち伏せされたように感じた。
「マロ君! 良かった逢えて……」
車内からの視線を感じた。仁美の華奢な肩を支え、遠ざけた。暗紅色のパーカー。裾の短い黒の襞スカート。焦茶のブーツ。そのままテレビにでも出られそうな格好だった。涙に気づいた。支えてやらないと倒れそうだった。
「何があったの」
「留守電に入ってたの。四時過ぎに青葉空港に着くって」
「誰が。ジェレミー?」
「パパ、生きてたのよ!」
梶山氏が助手席の窓を開けた。「お乗りください。急げば間に合います」
仁美は聞こえているか怪しかった。代わりに礼をいい、車内へ彼女を引き込んだ。ドアが締まるや車は滑り出た。杏の冷やかな視線に気づいた。
「『別件』の子?」
「ただの友達」
杏は追求せず、暗い視線を向けてきた。
渋滞が始まりつつあった。梶山氏は抜け道をいくつも知っていた。空いていても三十分はかかる距離を、およそ半分で走った。建物が次第に疎らになった。古びた大型店舗や、ホテルのネオンが眼につきだした。やがて倉庫や工場ばかりになった。
仁美は泣きじゃくった。僕の胸元は涙で濡れた。金持ちの車に同乗していながら、彼女はそのことに一度も言及しなかった。疑問は山ほどあるはずだった。まわりが見えない性格とは感じていたが、これほどとは思わなかった。
空港に来るのは初めてだった。ガラス張りの壁からの夕陽。到着ロビーは金色に染まっていた。人々は荷物と影を引きずっていた。
その男は人混みで浮いていた。伸びすぎた脂っぽい髪。古いスポーツバッグ、深緑のコート、酷使されたブーツ。こけた頬を無精ひげが際立たせていた。落ちくぼんだ眼が何かを捜していた。
仁美の泣き腫らした眼が、男を捉えた。彼女は引き寄せられるように駆けだした。男は自分に近づく少女を見た。憔悴した顔に笑みが広がる。鞄が床へ落ちた。大きく広げられる両腕。
激しい抱擁。親子はまわりの視線を浴びた。
「大きくなったな。見違えたよ」男の顔に写真の面影はなかった。風雨に晒した革を骨に張りつけたようだった。「顔をよく見せてくれ……美人になったな。ママにそっくりだ!」
「幸博は、幸博は……」その先はいえず、仁美は嗚咽した。
「人伝てに聞いた。つらい想いをさせたな。もうどこへも行かない。これからはずっと家族一緒だ……」男は娘の頭を優しく撫でた。それから初めて気づいた。「ママは?」
仁美の肩がこわばった。杏が訝しげに僕を見た。
「まさか独りで来たのか? あいつ何やってんだ。携帯番号は変わってないよな。間違いと思われたらしい。駅の公衆からかけたんだ」
「あのー……」僕は割り込んだ。親子は現実に引き戻された。父親は梶山氏に気づいた。
「縁辺丸夫君。お友達なの」
「初めまして、仁美さんのお父さん」
「ああ、初めまして。梶山さんがここまで運転を?」
運転手は嬉しそうに微笑した。「はい。よくぞご無事で……」
ピエール瀧は車内でうたた寝をしていた。梶山氏の手がドアに伸びると、見知らぬ人物に警戒する体勢をとった。臭いに顔をしかめる黒豹を、繁雄氏は無関心に一瞥した。異国であまりに多くを見過ぎたのだろう。
杏は助手席でペットを抱えた。客三名が後部席。父娘は恋人同士のように抱き合った。その隣にいるのは居心地が悪かった。
トツクニスタンでの経験を、父親は言葉少なに語った。外国人は見つかると殺される。親切な人たちが地下室や屋根裏に匿ってくれた。それだけ話し、もっぱら愛娘の学校生活を聞きたがった。勉強はどうだ。友達とはうまくやってるか。給食は。仁美は食が細かったからな。クラスのみんなは親切よ。上井戸先生の授業は凄いの。成績は前と変わらない。八十五点は割らないようにしてる。算数はこないだ七十八点とっちゃった……。
死んだ子供の話題は、初めは注意深く避けられていた。流れがそこへ及ぶのも時間の問題だった。
「お猿さんみたいって聞いてたけど、幸博は違った。頬っぺはふっくら。手足は小さくて、指を近づけると握ろうとした。いつも泣いてたけど、だっこしたげると笑った。ほんとにお人形みたいだった。もういないなんて信じられない」
「もっと抱いてやりたかった。家を空けてばかりで、駄目な父親だった」
「でも色んなとこ連れてってくれた。お土産だって——」
「それがわかるほど幸博は大きくなかった。してやれることがもっとあった」
「お仕事だもの。パパのせいじゃない」
「ママには本当に済まなかった。不注意は心労が原因だ。会社の指示なんか無視すべきだった。紛争が悪化する前に帰国していれば……」
「お酒なんて呑むからよ」
父親の眼が急によどんだ。聞き取れなかったようだ。「そういえばママはどうした。何かあったのか」
仁美は床を見つめた。「お勤めに……」
「仕事を始めたのか。苦労かけたな」
僕はまた遮ろうとした。仁美はううん、と首を振った。「気の毒な人たちを助けてるの。縁辺君のお父さんのとこで」
杏が息を呑んだ。梶山氏の視線をバックミラーに感じた。繁雄氏が、娘の頭越しに僕を見た。瞳孔の奥に深い闇が覗いた。彼がまともに僕を見たのは初めてだった。
「どういう意味だ」
誰も答えなかった。黒豹さえ息を潜めているように見えた。
何もかも自分のせいに思えてきた。お嬢や赤ん坊の死。母親たちの堕落。異国の貧困や内戦。父上に喰い物にされる人々……。
繁雄氏は僕を品定めした。彼を地獄へ追いやった人物。その知り合いと結びつくのが見えた気がした。彼の声は奇妙に静かだった。「梶山さん。この坊やの家までお願いします」
ドアを開くなり、外界の音が鼓膜を打った。犬の警告にお題目の合唱。繁雄氏に半ば押し出されるようにして降りた。彼は僕の存在など眼中にないようだった。
「お前はここで待ってなさい」
「パパ!」
娘の悲痛な声は、ドアに封じられた。杏が降りようとした。梶山氏に厳しい声で制止された。僕は繁雄氏を追った。
脇目もふらず母屋へ突き進む男。異様な風体だ。信者や入信希望者であるようには見えない。オニギリ頭は動揺し、守衛小屋を出ようとした。パイプ椅子に足をひっかけ、ドアへ激突した。プレハブ小屋が揺れた。
お題目が急にやんだ。静まり返る道場を、狂った犬の叫びが際立たせた。百名あまりの信者。人生相談の母娘の行列。邪悪なピエロを思わせる教祖。誰もが凍りつき、闖入者を見つめた。色白美人の巫女は教祖に寄り添っていた。半開きの唇には、衣装と同色の紅をさしていた。
繁雄氏は妻の名を呼んだ。そのひと言で呪縛が解けた。信者らは教祖の顔色をうかがった。合図ひとつでいつでも暴漢を排除する構えだ。父上は喝を入れる代わりに、寛大な笑みを浮かべた。
「何の御用ですか」妙に穏やかで優しげな声。危険な徴候だ。
闖入者には聞こえなかった。彼は妻に話しかけた。場違いなほど普通の調子だった。「やっと帰国できた。一緒に家へ帰ろう」
巫女は教祖の肩にすがりついた。眼が怯えていた。声はうわずり、慄えていた。「な、何よ今頃……迷惑よ!」
繁雄氏は板の間へ強引に踏み込んだ。信者らは渋々通してやりつつ、教祖の合図を待った。暴力団出身の幹部を、父上は視線で制した。ふたりはニヤついて成り行きを眺めた。
「呑んでたのか」
巫女は教祖の背後に後ずさった。繁雄氏は静かに問いを繰り返した。
「あれは飲酒運転だったのか」
眼前で演じられる事態を、教祖は明らかに愉しんでいた。繁雄氏は信者らを強引にかき分け、妻へ近づいた。左手が胸倉を掴んだ。
「どうなんだ!」
女の顔が嘲りに歪んだ。鼻にかかった声で嗤った。「莫迦みたい。そんなことで大騒ぎして!」
夫の顔がサッと赤らんだ。こめかみと喉が膨れ上がり、眼が熱を帯びた。右の拳を振り上げた。妻は手で頭をかばい、身をすくめた。
道場は静まり返った。衣擦れや息遣いさえ聞こえなかった。
気の触れた犬は叫びつづけた。
三年もの地獄から生還したら、家族を失っていた男。衆人環視で巫女を殴ろうとした男。彼は脱力したように両手を降ろした。そして右の拳を茫然と見つめた。

翌日、仁美は欠席した。体調を崩したので休ませる、と家族から連絡があった。ブラジルはそう説明した。
彼女の家族について知る者は少なかった。教団との関わりを知るのは僕だけのはずだ。父親の帰還の報せは、学校には伝わったろう。欠席を伝えた家族とは繁雄氏だ。
仁美の体調不良はマロのせいだ、と誰もが考えた。あながち的外れではなかった。絵に描いたような幸せな家庭を、僕の父親に蹂躙されたのだ。無残な傷のおかげで、表立って非難はされなかった。誰もが後ろめたそうな顔をした。
昼休みにまた呼び出された。保健教諭の声は、放送では無愛想に聞こえる。知らない人には怒ってると思われかねない声だ。
保健室で待ち受けていたのは、彼女ひとりではなかった。飯沢警部の椅子は玩具に見えた。スネ夫頭は同情らしき色を見せた。警部はあまり関心がなさそうだった。
「どうしたその顔は」
「不安の捌け口にされたんですよ」
僕はパイプ椅子に座った。保健教諭は診療台の方を睨んでいた。事務机に片肘をつき、頬杖をしていた。僕の顔については、すでに担任から聞いたようだ。
「傷害で訴えたらどうだ」
「子供にそんな権利ありませんよ。捜査の進展は?」
「遺体発見時の状況をもういちど聞きたい。正確な時刻は?」
「帰りの会は早かったな。掃除は五分くらい。あそこにどれだけ長くいたか。気がつくと後ろに鈴木晴彦がいた。それから教室へ、先生を呼びに」
「他に誰かいたか」
「遅かったんで。野次馬の多さに驚いたくらいです。一緒に現場に戻ってから、先生に頼まれて職員室に。全員の顔ぶれは想い出せないな。知らない先生もいるし。あ、そういや隣のクラスの生徒が」
「掃除のあいだ、上井戸を見かけたか」
僕は警部の顔を見つめた。小さな鋭い眼は何も語らなかった。保健教諭の機嫌が腑に落ちた。スネ夫頭は憂鬱そうにペン先を確かめた。何か不具合でもあったかのように。
「好きな子に呼ばれて頭一杯で。しかもその子が殺されたんです。仮に何か見たとしても忘れますよ。職員室にいたんじゃ?」
「本人の主張ではな。他の先生方の証言では終業後、十五分で現れた。授業は定時に終わったんだな?」
「糞でもしてたんでしょ」
「だとすれば教職員トイレじゃない。全個室が空いてた。小便した先生が見てる」
「記憶違いかも。部外者が侵入した可能性は?」
「不審人物の目撃情報はない。塀、金網、裏門を乗り越えた形跡もない。正門から入れば誰かに見つかったろう」
「教え子を殺し、何喰わぬ顔で職員室へ。それから教室で採点? 先生が長縄を持ち出せば、きっと誰かが憶えてる。まして生徒の小刀を盗れば……」
「子供にとって教師は絶対だ。何か理由があると見なされる。かばおうとする心理も働く」
「彼が刺してあの角度ね。指紋は?」
「被害者のだけだ。私は誰を疑ってるともいってない」
小岩井先生は苛立ちを露わにした。「その辺にしてあげてください。相手は子供ですよ。ショックを受けてるんです。同級生を亡くして、しかも現場を目撃——」
「私にはそう見えんがね。捜査の打切りが決まった」
聞き違いではなかった。警部は両膝に手をつき、椅子を軋ませて立ち上がった。台詞を消化するかのように、投げやりに続けた。
「父親は続行を望まなかった。母親も了承した。元亭主の意向なら、とな。マスコミには自殺と発表する。被害者は悩んでた。縄の縛り方は緩かった。自分でやったんだ。大人の世界じゃ使い古された冗談さ」
彼は機敏に戸口をくぐった。滑稽には見えなかった。広い背中に疲労が滲んでいた。部下は去り際、申し訳なさそうな一瞥を先生へ向けた。足音が廊下を遠ざかった。僕は先生に向き直った。
「思ったよりいい人たちだ」彼女は驚いたように僕を見た。「彼らは上井戸先生を知らない。疑うのは捜査上の手続です」
「だからって——」子供を相手にしてることを想い出し、彼女は口をつぐんだ。
「十五分間、彼はどこで何を」
「なんで私に訊くの」
「お友達でしょ。原稿を読んであげるほどの」
「相談事があったの。あなたには関係ない。顔、手当て必要?」
「酷いのは見た目だけなんで……」
小岩井先生はどこかよそよそしかった。僕を通して背後の何かを見ているかのようだった。
放課後、集団リンチにも拉致にも遭わなかった。いつもより早く図書館に着いた。黒沼さんは年配の利用者に、複写機の使い方を教えていた。晴彦は現れなかった。地震を予知する鼠のようなところが彼にはあった。
奥の心理学コーナーが空いていた。『人喰い鬼のお愉しみ』を読みはじめた。現実の悪夢は遠ざかった。あと少しで読み終わりそうだった。例の綽名を呼ばれ、振り返ると仁美がいた。ダッフルコートを着ていた。没頭しすぎて足音も聞こえなかった。
出歩いて大丈夫かと尋ねた。
「学校サボっちゃった。隣いい?」
母親にも何ひとつ断れた試しがない。僕は鞄を足許へ移し、空いた席を勧めた。
仁美は前屈みに座り、椅子の縁を掴んだ。狭めた肩が華奢な体を強調した。ブラインドの下りた窓を見つめ、歌うように話した。「昨日はパパのベッドで寝たの。遅くまで話した。お昼にパパが起きるまで、ずっと寝顔を見てたわ。ホットケーキ焼いたげた。それからパパは会社」
僕はペーパーバックに視線を落とした。声が高すぎるように感じた。仁美は僕の手を引っぱり、無理に立たせた。
「ね、お勧めの本教えて。マロ君の好きなもの、何でも知りたいの」
僕は本を尻ポケットにねじ込み、仁美を児童書コーナーへ案内した。
「きっと図書館にいると思った。マロ君、本好きだから」
「初めて来たんでしょ。これなんかどう?」
低い書架から『なくなったかいものメモ』を選び、示した。仁美は困惑したように微笑んだ。見ようともしない。好みを尋ねても無駄だと悟った。本はまた今度にして公園へ行こうと誘った。
カウンターを通過するのは気まずかった。黒沼さんは気づかないフリをしてくれた。公園まで当たり障りのない会話をした。ブラジルの由来は仁美も知らなかった。
前と同じブランコに並んで座った。鞄の底からカタログをひっぱり出した。「どれがジェレミー?」
仁美は小首を傾げた。「よくわかんない。写真のせいかな……」
「せめて画像がもっと鮮明だったらな。実物が見られりゃ一番だけど」
「貸して。しまったげる」
一度決めたら実行する子だった。強引に鞄を奪われた。仁美は中身を膝に乗せ、底板を外した。本を取り出してしげしげと見た。
「それ借り物なんだ。しまっといて」
仁美は本を抱き締め、悪戯っぽく笑った。「これ貸して」
「又貸しは……」僕は手を伸ばした。仁美は急に身を翻し、駆けだした。「あっ待て。返せって」
仁美は高い声で笑った。遊具や落葉樹のあいだを、巧みに逃げまわった。僕は無様に息を切らした。人を困らせて愉しむ神経が理解できなかった。
仁美は挑発するように、本を高く掲げて振り向いた。枯葉で足を滑らせ、悲鳴をあげて倒れた。僕はひざまずいて助け起こした。「大丈夫?」
「本、汚しちゃったかも……」
視線が思わず本へ行った。
「ばか!」仁美は僕を突き飛ばし、立ち上がって駆けだした。
フェンスに追いつめた。僕は両手で金網を掴み、仁美を押さえ込んだ。彼女の息は熱かった。犬を連れた老人が、じろじろ見ながら通り過ぎた。仁美は尻に本を隠した。僕はその手を掴もうとした。仁美は僕の両腕からすり抜けようとした。交通は激しく、嬌声は騒音にかき消された。
急に自分のしていることが莫迦らしくなった。彼女は何かを感じ取ったようだ。抵抗をやめた。僕は本を奪い返した。
「いいわ」
「え?」
「実物見せたげる。置いてる店知ってるの」
幹線道路沿いに、学区外れまで歩かされた。昭和期の民家。空室の目立つ雑居ビル。無人契約所。パチンコ屋。大きな駐車場のある廃墟。
その寂れたチェーン店は、裏が住宅になっていた。壁や看板は褪色し、排ガスに汚れていた。軒下には二百円のカプセル自販機が並んでいて、そこだけ新しく見えた。隣には幟の立ち並ぶ「書店」があった。自販機は「地元で出逢える」と謳っていた。
店内は薄暗かった。蛍光灯は端が黒ずみ、一部がチラついていた。処分品のワゴンに埃が積もっていた。現代版のベーゴマを物欲しげに見つめる幼児。模型コーナーでアニメの設定を語り合う若者二名。テレビゲームに群がる、小三くらいの四人組。客はそれで全部だった。有線がアイドルグループの曲を流していた。あるいは成人アニメの声優かもしれない。
縫いぐるみの棚に、目当ての品はなかった。振り返ると仁美はレジにいた。若い店員に声をかけていた。店員は背後の暖簾に首を突っ込み、店長を呼んだ。奥で声がした。店員は仁美に頷きかけた。
「ちょっと待ってて。すぐ戻るわ」仁美はそういい残し、カウンターの奥へ消えた。
値札に並ぶ九を数えて暇を潰した。自分の人生にこれほど無縁の場所もないと思った。将来子供を持つつもりもなかった。
暖簾は観光地の土産物で、日に灼けていた。その上には店名入りの丸時計。あれも本部から買わされるのだろう。針は緩慢に動いた。有線は浜崎あゆみになっていた。店員の眼は死んだ魚みたいだった。
大学生は何も買わずに出ていった。小三グループはゲームをやり続けた。他機種には見向きもしなかった。幼児は鼻糞をほじった。曲は松浦亜弥に変わった。幼児は掘削作業を中断した。人差指を熱心に見つめた。手近なパッケージになすりつけた。
店員がすっ飛んできた。僕は入れ替わりにカウンターへ入った。
暖簾の向こうは廊下だった。右手のドアは便所か。左手は事務室だった。スチール机にパイプ椅子。バインダーの並ぶ戸棚。折り畳みテーブルには魔法瓶と紙コップ。弁当箱型のノート機は、帳簿らしきものを表示していた。さっきまでここに店長がいたのだ。
建物の継ぎ目があった。打ち放しの壁と瓦風タイルの床。それがくすんだ壁と板張りの床に変わった。段差の手前に靴が並んでいた。茶色の健康サンダル、仁美のスニーカー。そこで靴を脱いだのを、すぐに後悔した。
床には埃の塊が転がっていた。台所の流しで汚れ物が異臭を放っていた。虫が湧いていてもおかしくなかった。茶の間の炬燵には干物と酒瓶。ささくれた畳にゴミが散乱していた。週刊誌に弁当の容器。耳掻きや爪切り。丸めたティッシュ。脱ぎ棄てられた靴下や股引。家具には埃が積もっていた。テレビ。戸棚。茶箪笥。小さな金庫。神棚には蜘蛛が巣をかけていた。
仏壇が眼をひいた。幼稚園の制服を着た少女が、黒い額縁に納まっていた。夏の木漏れ日に眼を細め、歯を見せていた。
隣の座敷には万年床があった。廊下の反対側は、傾斜の急な階段だった。二階は在庫が占領していた。階段の半ばまで段ボール箱が浸食していた。地下が気になった。身軽に動けるよう、鞄を床へ置いた。階段の軋みに注意した。
ドア越しに一連の物音が聞こえた。フラッシュの焚かれる音。重いシャッター音。自動的にフィルムを巻き上げる音。ドアをそっと開けた。閃光で眼がくらんだ。スタジオ照明が吊られた広い部屋。竿先に傘を取りつけた照明機材。壁から床に続く白い背景幕。小男がファインダーを覗いていた。
クッションを並べた籐の長椅子。そこで仁美が自慰の真似事をさせられていた。クッションの暗紅色と白い肌の対比が眩しかった。華奢な体には幼さと、発育した部分が同居していた。彼女の眼が僕を捉えた。羞恥と怯えがよぎった。
小男は背中を向けていた。侵入者に気づかず、シャッターを切り続けた。僕はリノリウムの床を横切り、照明を掴んだ。両手で大きく振り回した。ケーブルが切れ、青い火花を散らした。電球が音高く砕けた。傘と男の眼鏡が吹っ飛んだ。
血まみれの男は、カメラを護るように抱え込んだ。その腹に爪先を蹴り入れた。緩んだ腕から宝物を奪い、床に叩きつけた。大口径のレンズが割れた。
男は腹を抱えたまま、起き上がらなかった。僕はカメラを拾い上げた。歪んで裏蓋が開いていた。幅広のフィルムを引き出した。男は手を伸ばして這い寄ってきた。その頸にフィルムを巻きつけ、締め上げた。
男の舌が紫に膨れ上がった。飛び出した眼に恐怖が宿った。僕はその眼を見つめた。生命の火が弱っていくのがわかった。自分のすることに何の感情も持てなかった。
「マロ君やめて。もういいのよ!」
仁美がしがみついてきた。僕は手の力を緩めた。男は砂袋みたいにくずおれた。彼は手で喉を押さえ、激しく咳き込んだ。フィルムはよれてのびていた。仁美の肌は青ざめていた。見ないように努めた。
「ベークライトにガラスの眼……か。真実味を持たせたかったのはわかる。でもどこで仕入れた知識だよ。アンティークじゃないといったのは君だぜ」
仁美は慄える体を押しつけてきた。上衣の肩が涙で濡れた。「こんな状況から救い出して欲しかったの。打ち明ける勇気がなくて……」
服は背の高い椅子にかかっていた。鞄もそばにあった。彼女が身につけるあいだ、背を向けて小男を見張った。死ぬ心配はしなかった。しぶとそうに見えた。
「外へ出たら通報しよう」
「ネガとプリントを処分するだけにして。お願い。みんなに知られたくないの」
僕は男の頭を爪先で小突いた。ネガとプリントの在処を尋ねた。男は答えなかった。虫の息に見せればやり過ごせると思ってるのだ。
僕は現像室を見つけた。棚を倒した。洗濯ばさみのついた紐を引きちぎった。赤い電球を叩き割った。薬品を残らずぶちまけた。防湿庫を破壊した。自分が誰を真似ているのかは気づいていた。小男の悲痛な叫びは、騒音に掻き消された。
僕は戻ってきて、さっきの竿を手にした。天井の照明を叩き落とした。三つめに取りかかったとき、小男が僕の脚にすがりついた。「頼むからやめてくれ! ネガとプリントは茶の間の金庫だ……」
「それで全部か」喉元に竿先を突きつけてやった。男はその先端を見つめて頷いた。喉仏が上下した。「データの複製とかは?」
男は蔑むように顔を歪めた。「デジタル? あんなもん邪道だ」
僕は彼の頭を蹴り飛ばした。住居にパソコンは見当たらなかった。事務所にあった骨董品だけだ。画像処理できる代物ではない。ウェブでばらまかれていたら、どうせ対処しようがなかった。
小男に階段を上らせた。僕は鞄を背負った。男は放心したように金庫を開けた。彼の手から大判の封筒をひったくった。
「全部揃ってるか確かめて。仁美は見たくない」
立ったまま中身を検めた。大勢の子供が記録されていた。被写体の虚ろな表情には見憶えがあった。踏みにじられた者に特有の諦め。
セーラー服の上だけを着た少女。帽子や靴下だけの少女。様々な姿態。何人かで映ったのもあった。裸で赤い鞄を背負った幼女には吐きそうになった。死んだ娘と同年齢だった。
人生が彼を歪めたのかもしれない。あるいはただの生まれつきかもしれない。詮索しても被害者は救われない。加害者がまともになり、罪を自覚するわけでもない。この小男みたいな者もいる。逆に人心に付け入ることで、世間の方を自分に適応させる者もいる。どちらも選べずにただ弱っていく者もいる。
写真の大半は未整理だった。撮影日や被写体の別なく、束ねられていた。仁美のだけは別扱いだった。ネガと共に輪ゴムで纏められていた。一枚ずつ照合した。意味のある作業とはいえない。仁美を安心させるためだった。すぐそばに本人がいるので後ろめたい。ホクロは赤ん坊の頃と同じ位置にあった。
欠落がないことを仁美に納得させ、炬燵の上からライターを発掘した。台所の流しで火をつけた。炎に舐められて黒く縮む束。仁美は僕の肩越しに見届けた。
茶の間の男は放心状態だった。仁美の手を引いて廊下を抜け、暖簾をくぐった。若い店員が驚いた顔をした。構わずカウンターを出た。一度も振り返らなかった。
来た道を引き返した。騒音が沈黙を補った。僕だけ鞄を背負っているのが愚かしく思えた。
やがて仁美は伏眼がちに話しだした。独り言みたいに、ぽつりぽつりと。
「一年くらい前、キーホルダーを万引きしたの。別に欲しくなかった。すぐ棚へ戻すつもりだった。誰にも見られてなかった。店員さんにもお客さんにも。もしかしたらこのまま外へ出ても大丈夫かも。そう考えたら試してみたくなった」
大型トラックが轟音とともに排気ガスを撒き散らして過ぎた。
「店長さんが『ポケットのもの出しなさい』って。事務室へ連れてかれて、座らされて。『ああ、警察や学校に通報されるんだ。仁美が普通の家の子じゃないって、みんなにバレちゃうんだ』って思った。長いお説教のあと、今回だけは見逃してくれるっていわれた。『内緒にする代わりにいうことを聞け』って。それから今日まで何度も……。もう許してって頼んでも、写真をばらまくって脅されて……」
銀杏ロードに差しかかった。晴彦の姿を認めた。彼は舗道に屈み込み、小刀で何かを執拗に突き刺していた。異様な光景だった。何かが思い通りにならないと、彼はしばしば感情を爆発させるのだ。その怒りは他人には理解不能だった。
彼はふと顔をあげた。まるで表情のスイッチを切り換えたようだった。幼い眼を剥き、口をぽかんと開けた。彼としては異例の機敏さで立ち上がった。
僕は彼の足許に眼を奪われた。最初は百円ショップのゴム玩具に見えた。芸を仕込もうとしたが、命令に従わないので抹消した。そんなところか。
それは切り刻まれたカナヘビの死骸だった。
晴彦は蒼ざめて立ち尽くした。お嬢が殺されたあの日みたいに。いったん僕らをやり過ごし、十メートルほど遅れてついてきた。骨がないかのような身のこなしだった。
仁美は足許を見つめて歩いていた。自分の世界に籠もり、晴彦の存在には気づかなかった。夕方で交通は激しさを増していた。毒のペーストみたいな視線を、背後に感じた。
仁美は急に立ち止まった。意を決したように。
「どうした?」
そう尋ねながら、脳裏には別の考えが渦巻いていた。お嬢の最期の言葉を耳にする機会が、晴彦には本当になかったろうか。あの頃は廊下でたびたび話しかけてきた。僕への異常な執着。アリバイも充分ではない。嫉妬から逆上、先まわりして彼女を殺し、体育倉庫の陰に隠れた……可能性はある。
「マロ君、本当にありがとう」
仁美に抱きつかれた。唇を塞がれ、呼吸を奪われた。唇は熱く湿っていた。舌は蛇のようだった。
僕の視線は晴彦を捉えていた。彼は電柱の陰で息を呑んでいた。憧れの女子は、箱の中でバレエを踊る人形ではなかったのだ。
意に沿わなかったカナヘビみたいに。

神の息子を生け贄の山羊として扱う。それは確かに変わったカルトだった。教団内には、僕が何者か知らない信者さえいた。父上と同様の狂人に生まれつけば、事情はまた違ったかもしれない。僕は勘違いしたまま育ち、犯罪者になっていたろう。そこでは誰もが手近な狂気にすがりつき、破滅の淵へなだれ込もうとしていた。
その夕方、教団施設内は閑散としていた。道場では四、五名が掃除をしていた。板の間を競い合うように雑巾がけし、天井の煤を払う。動作のぎこちない青年、殴られる日常から逃げてきたらしい中年女、リストラされた男。人生が破綻した末に、こんなところへ行き着いてしまったのだ。
「餓鬼がウロチョロしてんじゃない。掃除の邪魔だ」入信して日の浅い連中らしかった。追い払われた。
信者が出払ってる理由を想い出した。市民会館で父上の講演会があったのだ。公園は七時までだが、戻ってくるのは信者だけ。教祖と幹部らは、料亭で朝まで宴会だった。
土蔵へ急いだ。針金の秘術で錠前をこじ開けた。独特の臭いのする暗がり。格子の嵌まった高窓からは、薄い夕陽が射していた。金色の光条に埃が踊った。
段ボール箱。教団の広報誌の束。贈答品の空き箱。それらの山から、ラジオつきランタンを発掘した。ディックを取り出し、表紙を上衣の袖で拭いた。読みはじめてすぐ『虞美人草』との共通点に気づいた。登場人物たちは、ある種の人格に翻弄されていた。
現実は意識から締め出された。街の騒音も表が暗くなるのも、狂った犬の声も。お嬢のいった意味がわかりかけた頃、尿意が堪えきれなくなった。本を鞄の底板に隠し、すぐ戻るつもりで蔵を出た。寒かった。
最も近い便所は、幹部職員と巫女の居住棟にあった。普通の家庭にあるような型で、清潔に保たれていた。今なら使用しても差し支えまいと判断した。個室は使用中だった。把手の小窓が赤になっていた。五分は待った。ノックして耳を澄ました。何の音もしなかった。気配すら感じない。
把手には小さな溝がついていた。外から鍵を開けられる。親指の爪をドライバー代わりにした。先客を確認し、ドアを締めた。渡り廊下を母屋へ向かった。一般信者用は、公園の公衆便所を思わせた。そこで用を済ませた。
さっきのリストラ男が、手洗い場で雑巾を濯いでいた。僕は手を洗った。男は眉根を寄せた。僕は体が強ばるのを感じた。
「おい、いつまで洗ってる。水の無駄だ」
彼は「節水」の貼り紙を指さした。僕は謝罪の言葉を口にし、逃げるように詰所へ向かった。食事係に小声で文句をいわれつつ、ご飯をよそって食べた。
居住棟の方が騒がしくなった。渡り廊下を裸足で駆けてくる音がした。勢いよくドアが開いた。リストラ男が飛び込んできた。息を切らしていた。「大変だ! トイレにし、し、し……」
「また詰まった?」食事係のおばちゃんが顔をしかめた。「騒がなくてもスッポンってやりゃいいじゃないか」
僕にはわかった。男は「死体」といいたかったのだ。
普段なら内輪で穏便に処理していたろう。不慣れな者しか残っていなかった。教団は閑静な住宅街にあった。それが非日常の光景と化した。敷地を囲む長い塀にパトカーが集まった。警官は無線で連絡を取り合い、呼子を鳴らし、野次馬を牽制した。不安げに囁き合い、携帯を掲げる人々。腕章をつけた報道陣。甲高い声のリポーター、フラッシュの閃光。
狂った犬は叫びつづけた。
連絡は行ったはずだが、父上が宴会を切り上げて戻ることはなかった。新入りに責任を押しつける旨みがあったのだろう。あるいは単に警官とやり合うのが面倒だったのかもしれない。施設には警官が詰めかけた。鑑識は粉を叩き、デジカメで撮影し、文字の札を並べ、掃除機をかけた。
飯沢警部とスネ夫頭は、詰所に陣どった。遺体発見時、敷地内にいた者をひとりずつ呼び出した。最後に僕が呼ばれた。元SEの男が、付添いと称してついてきた。長い食卓に並んだふたりは、入社試験の面接官みたいだった。入室するや、厳しい視線が集まった。
「どうした坊主。いつもの威勢は」
「警部」尾根河は元SEを睨んでいた。警部はまだ居たのかという顔をした。
「この子供には何もわかりません。私が代わりに答えます!」
「君の話は聞かせてもらったと思うが」
「嘘をつくかもしれない! お父上にいつも迷惑を——」
「嘘かどうかはこっちで判断する。捜査の邪魔だ。出てってくれ」
「警察は子供の嘘を信じるのか? 真理とは——」
飯沢は眼で合図した。制服警官が二名、すっと近づいてきた。元SEは羽交い締めにされ、廊下へ連れ出された。わめき声が聞こえた。「天罰が下るぞ! 修行の場を土足で荒しまわって。教祖様はお見通しだからな!」
「坊主との話が終わるまで、君らも出てくれ」
制服警官たちは出て行った。警部は両肘をつき、組んだ手で顎を支えていた。小さな眼は相変わらず鋭かった。僕は向かい合う席に着いた。
「外弁慶なんですよ。目立たないよう気をつけてるんで」
「そのようだね」スネ夫頭が初めて意見を述べた。不正に憤る若さをまだ失っていないのだ。
「糞溜めに生まれたら一生臭うんです。ところでこういう施設は初めてですか。この部屋、監視装置があるんですけど……」
尾根河はハッとした顔になった。警部はわずかに眉を動かした。
「カメラとマイクが数カ所。大丈夫、執務室には誰もいないんで。ハードディスク装置の導入を幹部たちは勧めてます。父上はそれが何かわからないみたいです」
「じっくり話を聞く必要がありそうだな。お父さんからは」
「どうでしょうね。県警幹部や代議士と繋がってますから。実際ちょっと驚きました。うちに警察が入ったのは初めてなんで」
遺体を最初に発見したことを明かした。
「ドアを開けたら女の人が座ってました。蓋をした便器にジーンズ穿いたまま。血は見えなかったけど死んでると思った。瞬きしてなかったから。ブラウスは途中までボタンが外されてました。引きちぎられてはいなかった。着替え中に殺され、発見を遅らすために運ばれた。そんな風に見えました」
警部は関心なさそうにいった。「隣の更衣室は調べた。あの低いロッカーは危ないな。角に体液と組織片が付着していた。適合する損傷が被害者の後頭部にあった」
「まだ先生を疑ってるんですか。今度のアリバイはどうです。やっぱり僕が怪しい?」
尾根河はふっと微笑した。警部はうんざりしたように腕組みした。「この事件とは関係ない。それになぜ君を疑わにゃならん」
「死人に出くわしたのは二度目ですよ。偶然と片づけられます?」
「まるで誰かに罰されたいみたいだな。被害者を知ってるのか」
「中山愛子。同級生の母親で、父の愛人です」
「昨日、ここで揉めたようだが」
「査べがついてるんですね」
順を追って説明した。仁美の父親が三年間、海外で生死不明だったこと。赤ん坊の交通事故死。その原因が妻の飲酒運転にあり、しかも彼女が教祖の愛人になっていたと知り、繁雄氏が激昂したこと。
警部は小さすぎる椅子にもたれ、大儀そうに天井を見つめていた。聞いていないようにも見えた。やがて彼は視線を戻し、口をひらいた。「駐車場係が中山繁雄を見ている。被害者の車で現れたそうだ。娘に見える子供を連れていた。君ぐらいの年齢だそうだ」
「仁美だ。五時くらいに別れたばかりですよ」
飯沢は無関心に頷いた。「十五歳の不登校児が、駐車場係を今日だけ任されていた。出勤する妻の車に、繁雄が無理やり同乗した。子供が心配してついてきた。そんな風に見えたそうだ。十五分後に父親だけが戻り、車で去った。掃除係の女が、更衣室での口論を耳にしている。娘はひとりで歩いて出ていくところを、守衛に目撃された。自宅に婦人警官をやって保護したよ」
「なぜそんな重要な情報を僕に?」
「どうせ一時間後には公表される」
くたびれたコートの内側で振動音がした。飯沢は携帯を取り出して応じた。口を結んで虚空を鋭く見つめる。ああわかったといい、携帯を戻して立ち上がった。
「中山繁雄が車で青葉埠頭から飛び込んだ。地元ダイバーにすぐ救助された。犯行を告白する遺書が車内から見つかった。意識が戻りしだい病院で事情聴取する」
彼は食卓を回り込んで戸口へ向かった。尾根河が後に続いた。
「その遺書を信じるんですか」
警部は体を屈めかけて振り向いた。「俺が何を信じようと誰が気にする?」冷ややかにいった。
ふたりは出ていき、ドアは音を立てて締まった。
朝に新聞を読むのがその頃の夢だった。実際には連載小説が面白いときだけ、図書館で眼を通していた。
翌日の午後に習字があった。その朝の地方紙を、誰かが古新聞として持ってきた。ブラジルはやはり事件について触れなかった。唯一の情報源は、休み時間のたびに回覧された。前の席の誠司は、国語が大の苦手。時間をかけて読破し、嬉しさのあまり僕にまで回してしまった。取り上げられないうちに急いで読んだ。
カルトの施設内での殺人。本来は全国紙のトップになってもおかしくない。それが四コマ漫画の下に、小さく収まっていた。豪語するだけの力が父上にはあった。
「中央署は昨日、青葉市草花院の元会社員、中山繁雄(38)を過失致死、死体遺棄、道路交通法違反の容疑で逮捕した。妻を死なせ、遺体を隠して逃走した疑い。調べでは中山容疑者は昨日午後六時ごろ、妻の愛子さん(34)と青葉市米倉の団体施設で口論になった。激高した容疑者が突き飛ばしたところ、愛子さんはロッカーの角に頭をぶつけて死亡した。容疑者はその後、発見を遅らせるため、遺体をトイレに隠した疑い。容疑者は車で自殺を図ったが、生命に別状はない。入院先の病院で犯行を自供した」
押し殺した周囲の囁きに、僕への非難が聞きとれた。知ったことか。誰もこの記事を不自然に感じないようだった。彼らの興味は仁美への同情に集約された。父親の帰国に喜んだのも束の間、今度こそ本物の孤児となったのだ。彼らの理解はそういうもので、実際には何ひとつ知らなかった。
父親に目の前で母親を殺される。それはちょうど長年暮らしてきた場所が放射能に汚染されていたと知るようなものだ。元気を装うのに慣れてはいても、普段通り登校できるはずがない。僕でさえ翌日は便所で吐いたりしたものだ。
団体施設とやらの正体を、親に聞かされた者もいたようだった。大人たちが眉をひそめる理由までは理解してないように見えた。まして僕がそこの息子だとは誰も知らない。出自を詮索するほど関心を抱く者はなかった。信者の子は知っていても隠していた。誰が好きこのんで家庭の恥を晒すものか。
教団はこう謳っていた——「心身を鍛え直し、立派な日本人にする」と。そして不登校児の家族を数多く取り込んだ。教祖は幹部を率い、多くの学校を訪れた。教職員らを応接室に監禁し、数時間にわたって説教したりした。イジメの加害者とされる家庭に乗り込み、謝罪を強要することもあった。問題にならなかったのは県警や市の教育委員会とつながりがあったからだ。児童は不適応をこじらせる。すると家族はますます教団への依存を深めた。
自分に降りかかるとは考えたくなかった。外の社会と教団とを、僕は切り離して考えていた。でも結びつけようと思えば、やれる者はいたのだ。
「五年二組の縁辺丸夫君。お家から電話がありました。すぐ帰るようにとのことです」
昼休みに校内放送があった。視線を浴びながら、鞄を背負って教室を出た。職員室でブラジルの姿を捜した。向こうが先に僕を見つけた。窓からの陽光を背に近づいてきた。
「こんなときは先生に断らなくてもいいぞ。早く帰れ」
「何があったか聞いてますか」
「お父さんに逢えばわかる」
担任の表情は見えなかった。わけのわからない恐怖を彼に感じた。さよならをいって職員室を出た。ほとんど駆けだしたい気分だった。それが彼との最後の会話だった。
犬の叫びがいつにも増して耳についた。守衛小屋を過ぎるとき、その理由に気づいた。お題目が聞こえない。
道場には信者らが、所狭しと正座していた。僕に視線が集中した。
父上は眼玉をギョロつかせ、ふんぞり返っていた。自分の手前を厳かに示し、座れと命じた。両脇には幹部らが控えていた。肩書に「元」のつく、いかつい男ばかりだ。
苦虫を噛み潰したような顔の、元経営コンサルタント。日焼けした童顔の元弁護士。丸顔の元暴力団幹部。麻酔をした患者にいかがわしい行為をした疑いで、大学病院を追われた元外科部長。
僕は信者のあいだを進み出て、深々と伏し拝んだ。
「学校はどうだ」
「毎日、真面目に勉強しています」
教祖はさも滑稽なことを聞いたかのように眼を剥いてみせた。「毎日、真面目に勉強しているとさ」彼は笑いのさざ波が静まるまで待った。穏やかな声で尋ねる。「何か私に相談することがあるんじゃないのか」
意図が読めず、答えられなかった。
「クラスのお友達はどうなんだ」
「仲良くやってます」
「そんなことは訊いていない!」父上は立ち上がって罵声を発した。僕は身を縮めた。
「教祖様はイジメを心配しておられるのだ」暴力団あがりの幹部が、厳かにいった。
「話にならん。行くぞ」教祖は呆れたように幹部らにいった。
五人は板の間を踏み鳴らして出ていった。次第にことの重大さが脳味噌に浸透した。僕は鞄を背負ったまま後を追った。お題目が背後から沸き起こった。
事前に連絡をしなかったのだろう。校門は閉ざされていた。見覚えのある高級車が二台、裏手に路上駐車していた。教団の公用車と幹部のスポーツカーだ。明らかに通行の邪魔だが、この手の車に文句をつける住民はいない。
二階まで駆け上がったときだ。廊下に父上の喝が響いた。職員室の戸口に駆け寄った。ご高説をまくしたてる後ろ姿が、隙間から見えた。幹部らはそれぞれの流儀で、教職員を威圧していた。元ヤクザは睨みを効かせていた。元コンサルタントは事務的で、冷静な態度だった。元弁護士はふてぶてしく腕組みしていた。元外科医はキョロキョロしては、他人の机のものを物珍しげにつまみ上げた。
授業中で、応対できる教師は少なかった。教頭はこめかみをハンカチで拭い、例の水呑み人形の動きをしていた。そこへ校長が、電話を終えて校長室から出てきた。教頭に事態を説明され、眼に怯えをよぎらせた。営業用の笑みを繕い、一行を校長室へ招いた。
騒ぎは待ちかねたように再開された。
教頭は汗を拭き、ドアの前を行きつ戻りつした。僕はただ見ているしかなかった。五分後、弱り切った校長が出てきた。教頭の席に屈み込み、放送で全教職員を呼び出した。それから職員室にいた全員を、校長室へ連れ込んだ。
校舎は騒がしくなった。自習を告げられ戸惑う声。やがて内履きのサンダルやゴム底の音が集まってきた。ブラジルの長身は遠くからでも識別できた。廊下の端から僕を認めたようだった。床を見つめてやり過ごした。向こうも声をかけてこなかった。彼らは困惑し、顔を互いに見合わせて校長室へ入っていった。僕を不審そうに一瞥する先生もいた
教祖は調子づいた。説法は朗々と響き渡った。
僕は打ちひしがれ、学校を後にした。図書館で気を晴らそうとしたが、活字はまるで頭に入らなかった。卑怯者になった気がした。地下で視聴覚資料を閲覧した。何を聴き、何を観たか憶えてない。傘立ての前を過ぎて表へ出た。
違和感を憶えて振り向いた。骨だけの傘はなくなっていた。
僕が逃げてから、全生徒が帰されたらしい。校長の判断だった。それから教職員は校長室に夕方まで監禁された。気分が悪くなる先生が出て、救急車が駆けつける騒ぎとなったそうだ。許しを得ずに救急車を呼んだとかで、教祖はますます荒れ狂ったという。その後、父上と幹部らは料亭に繰り出した。さぞかし旨い酒だったろう。教団に戻ったのは深夜だった。
担任が休んだのは、僕の知るかぎり翌日が初めてだった。代理で教壇に立った教頭の話では、病院に検査へ行ったという。二日後に復帰したブラジルは、加齢臭の染みついた黒い箱を腰につけていた。電極はセーターに隠れていた。
こんな担任を見るとは夢にも思わなかった。生徒への関心は明らかにおざなりだった。話しかけられても気づかずに通り過ぎさえした。授業からは何かが失われた。巧みだがそつのない、そんな授業をする先生なら他にもいた。生徒らは拍子抜けし、戸惑った。まるで何かの影に怯えるかのように互いの顔色を窺い、腹の内を探り合った。
ほかの教師たちからは、僕はあからさまに問題児扱いされるようになった。不快げに一瞥したり、逆に無視したり、眼を背けたりされた。何も悪いことをしてないのに、気をつけろと怒鳴られたりもした。ブラジルも僕を避けるかに見えた。
生徒は大人から自然に影響を受ける。伝染病の保持者みたいに扱われるようになった。女子たちが悲鳴をあげて逃げた。六年生に囲まれてどつかれた。下級生に唾を吐きかけられた。誰もが公然と罵声を浴びせ、石を投げつけてきた。
教団内でも監視が強まった。これまで以上にお勤めに打ち込まねばならなかった。図書館に寄り道するどころか、黒沼さんに本を返すこともできなかった。そしてその夜が訪れた。
道場は肌寒く、薄暗かった。風の音と犬の叫びだけが聞こえていた。僕は信者らに囲まれ、教祖の前に正座させられた。「毎日帰りが遅いようだな。どこで何をしていた」
その数日はまっすぐ帰宅していた。道理などどうでもいいのだ。
「遊んでました。友達の家とか、学校の校庭で……」
「何? そんなボソボソ喋られても聞こえん」
僕は生意気に取られまいと注意深くいった。「校庭や友達の家で遊んでました」
「友達ィ? 友達って誰だ」答えに詰まった。教祖は勝ち誇った。「点検だ。鞄の中身を見せなさい」
たびたび行われる検査だった。従順に留金を外し、蓋を開けた。
「愚図愚図するな。みんなお勤めを中断して待ってるのだぞ!」
咎め立てる視線が集中した。手際が悪かったわけでも、時間がかかったわけでもない。信者は教祖の望むようにしか物事を見られないのだ。僕は鞄を空にした。途端に顔を蹴り倒された。なんと酷い息子か、と信者らは嘆息した。慈悲深い教祖様にここまでさせるとは……と。
「底板に隠した物があるだろう」
とぼけられる空気ではなかった。本を取り出すと、どよめきが起こった。教祖は鼻で嗤い、計算づくの台詞を発した。
「図書館から借りたのか」
僕は床から視線をあげ、彼を見つめた。とどめの一言が発された。
「日頃の好き勝手を知らぬとでも思ったか!」
それから彼は命じた。聞き違いかと思うほど素っ気なく。「裂け」
僕はぽかんと口を開けた。元暴力団幹部が、いかめしい態度で補足した。「その汚い本を破り棄てろとの仰せだ」
全員が僕を見つめていた。強い北風が庭木や窓を揺らした。犬は吠え続けた。
「聞こえないのか。さあ、教祖様が待っていらっしゃるぞ……」元経営コンサルタントが親切を装って忠告した。
黒沼さんには説明してもわかって貰えないだろう。本をひらいた。左右の頁に、互い違いに力をかけた。人間性について書かれた本は真っ二つに引き裂かれた。お嬢もこの音を聞いたのだろうか、と思った。
頁を細かく破り続けた。僕という人間もバラバラになっていった。
「皆の者よ。我が息子は世間の罪悪に染まった。修行を怠り、偽りにうつつを抜かした。これほど深く慈しみ、手を尽くしたにも関わらずだ。しかし私は息子を責めない。このような邪悪な子供が育つのも、教育現場の腐敗故だ」
聴衆から感動の声が漏れた。
「先日、教師らと話した。物わかりの悪い校長だったが、最後には善処を約束した。だが肝心の担任は、反省が薄かった。罪を悟らせるには如何なる途があろうか?」
「禊だ」夢見るような声が上がった。
「そうだ、禊だ」
信者らは口々に呟いた。次第に明瞭になり、道場を揺るがす合唱となった。連呼される声は、呪術的な波となった。人々は憑かれたように昂揚した。
みっそぎ……みっそぎ……みっそぎ……!
教祖は両手で厳かに制した。「その前に一度だけ、改心の機会を与えようと思う。彼の魂の救済を祈ろうではないか」
誰もが胸を打たれ、涙を流した。お題目を唱え、伏し拝みはじめた。道場は異様な熱気に包まれた。こんなに盛り上がったのは、母を殺した日くらいだった。
「堕落した魂を救いに赴く。正しき教えは必ずや真理を導くであろう!」
教祖は四人の幹部を率い、僕の脇を過ぎた。落ち着きのない元外科医が、癖のある高い声でいった。「お前も来るんだ」
担任のアパートは墓地の裏手にあった。塀や電柱で車体をこすりそうだった。元経営コンサルタントは慎重にハンドルを操った。
水銀灯で照らされた路地。二台の車が辛うじて停められた。元ヤクザが、直行できて便利だと冗談をいった。塀の上を猫の影が走った。雲の垂れ込めた夜空を電線が寸断していた。そこでカラスが威嚇するように羽ばたき、警告の声を発した。
木造モルタルの二階建てアパート。築三十年は経っていそうだ。墓地の植木が、寂しげな影と枯葉とを落としていた。枯葉は雨樋や側溝に詰まり、土に還りかけていた。階段の手すりや踏み段は、塗装が剥げて錆が浮いていた。男たちは乱暴な足音を立てた。階段は悲鳴みたいに軋んだ。
元弁護士が二〇一号室の呼鈴を押した。ブーッと弱々しい音がした。錠が外れてドアが開き、土気色の顔が現れた。ジャージ上下に健康サンダル。茫然とする彼を押し退け、男たちは土足で上がり込んだ。
僕は担任と視線を合わせられなかった。俯いたまま靴を脱ぎ、玄関を上がった。男たちは部屋の主が戻るのを待ち受けていた。教祖の衣裳は、よそで見ると強烈な違和感があった。元外科医は例によって物珍しげにキョロキョロしていた。
天井の低い六畳間。電灯は薄暗かった。侵入者らの前でスイッチの紐が揺れていた。カーテンは地味な灰色。漆喰壁にはカレンダーさえなかった。家具といえば炬燵と、部屋に不釣合いな書棚だけ。書棚には本が隙間なく詰め込まれていた。教育雑誌や専門書。日本文学の古典や名作。様々な辞書や六法全書……。『カルト脱会マニュアル』『犯罪被害者支援』といった書名も見られた。
炬燵の上には薄汚れた電話機と、赤いトラックポイントのついた黒いノート機があった。壊れたタイプライターを模したスクリーンセイバーが動いていた。同じ文章を延々と打ち続けている。
「All work and no play makes Jack a dull boy……」
芯を燃やす型の石油ストーブにはヤカンが乗っていた。火はついていなかった。僕は畳の目を数えた。
「お招きした憶えはありません。出て行っていただけますか。警察を呼びますよ」ブラジルの声には奇妙に感情が欠落していた。まるで何度もこの場面を演じてきたかのようだった。
男たちは顔を見合わせ、爆笑した。
「まったく警察を呼ぶのが好きな男だ」元コンサルタントが呆れたようにいった。
元弁護士が白い歯を覗かせた。「警察もいい迷惑でしょ」
「碌なもん入ってねえな」元外科医は冷蔵庫を漁っていた。残り少ない調味料やひからびたチーズを背後へ放りはじめた。瓶詰が壁にぶつかって割れた。
元ヤクザがガニ股でブラジルに迫った。「警察呼ばれて困るのはそっちじゃねえか?」と顎を突きつける。「世間は忘れたわけじゃねえぞ。教え子の不審死を……」
「あんたの生徒はみんな不幸になるな。井上雪乃が死んで何年になる?」
父上が面白がるようにいった。ブラジルは喉の奥で、息の詰まるような音を立てた。彼の呼吸が荒くなった。
「あれはいい女だったな。惜しいことをした。つまらぬ反抗などせねば良かったものを」
金属的な騒音がした。元外科医が流しの扉を開け、鍋やフライパンを物色していた。元ヤクザは書棚の本を床へ落としはじめた。「埃臭え本なんか並べやがってよ……」
ブラジルが低く呻いた。長身がよろめき、右手がジャージの左胸を掴む。元弁護士が押し入れを開けた。
「うっ、黴くせー。布団干せよ。何この古雑誌の束。エロ本?」
「ひどい部屋だ。住民の心の醜さを映しているかのようだ」教祖は厳かに頷いた。
それからが本番だった。学校での説法は予行演習に過ぎなかった。雪乃なる女性がどのように男たちを愉しませたか、父上は詳細に語った。ブラジルの教師としての資質に、延々と疑問を呈した。近隣一帯に響き渡るような声だった。幹部らは部屋を荒らし、教祖の指摘に賛同し、ブラジルを指さして爆笑した。
担任は壁にもたれて立っていた。熱病みたいに慄え、喉をゼイゼイ鳴らし、左胸を掴んで脂汗を流していた。唇は紫。落ち窪んだ眼は虚ろだった。ジャージの腋が黒い染みになっていた。
その時点になって初めてわかった。彼の授業。穏やかな物腰とは裏腹の、ひとを怯えさせる不安な力……。この瞬間が訪れるのを、彼はずっと予期していたのだ。おそらく雪乃なる生徒が亡くなったときから。
寺井の娘の殺害を誰もが疑っている。お前が首を突っ込まなければ、あの女は死なずに済んだ。そうほのめかされたあたりで彼はくずおれた。アパートは倒壊しそうなほど揺れた。
一瞬の静寂ののち、男たちは爆笑した。腹を抱えて喘ぎ、壁を叩いたり足踏みしたりした。おい坊主、医者呼んでやれと元弁護士が声を絞り出した。医者ならここにいるぞ、と元外科医が叫んだ。神経症的な笑いが高まった。
ブラジルは白眼を剥いてかすかに痙攣していた。呼吸は荒く、弱々しかった。大人たちになど構っていられなかった。僕は炬燵の電話で救急車を呼んだ。制裁は覚悟の上だった。
手当ては間に合わなかった。後になってわかった。二台の車が路地を塞いでいて、近づくのに手間どったのだ。

後任者が来るまで、教頭が担任を務めたのは憶えている。同級生が訃報にどう反応したか。生活の変化にクラスがどう適応したか。そうしたことがまるで思い出せない。教団での暮らしも同じだ。身内と部外者とでは、死の意味が異なるはずなのに。破局へと繋がる綻びの始まりだったかもしれないのに。
後藤杏とはやがて、つるんで遊ぶ仲になる。よく憶えていないが、あの数日間にも一度くらい顔を合わせていたはずだ。晴彦の姿はその前からあまり見なかった。警部とその部下の印象は、さらに薄い。ちょくちょく学校を訪れ、僕に愚痴をこぼした気もする。再会したのはずっと後、別の事件でのようにも思える。
鮮明なのは奇妙にも、取るに足らない細部ばかりだ。曇り空から射す、弱い陽光。枯葉が舞う乾いた音。埃っぽい排気ガス、銀杏の臭い。十一歳の秋がいつまでも続くかのような錯覚……。
「マロ君」
冬も近づいた放課後だった。風は冷たく頬を刺した。聞き憶えのある声に、校門で呼び止められた。足をとめて振り向いた。
黒沼さんだった。ジーンズに黒セーター、踵の高いショートブーツ。フードの縁に灰色の毛皮のついた、深緑の軍用コート。黒いリュックを背負っていた。やはり黒のヘルメットを抱え、片手をポケットに突っ込んでいた。
「休館日でしたっけ」
「働く気がしないのよ。元気そうで良かった」
彼女は僕の頭に手を置き、髪をクシャクシャにした。
「ごめんなさい。あの本——」
「返さなくていいわ。古い本だし。最初からあげればよかった」
僕は視線を気にした。下校する生徒らが、物珍しげに見ていた。
「乗って。立ち話もなんだから」
大型バイクが路肩に停めてあった。黒沼さんはヘルメットを被り、ハンドルを握った。僕はその後ろに跨り、彼女の細い腰にしがみついた。甘い香り。集団暴行を受けた午後の記憶がよみがえった。
「鞄、邪魔? しっかり掴まってて」
振動が腰を突き上げ、エンジンが低く吠えた。バイクは巧みに車列を縫った。
公園の樹々は、色づいた葉をすっかり落としていた。黒沼さんは表通りに面さない側にバイクを停めた。エンジンの回転がやむと、往来の騒音が聞こえた。ブランコがわずかに揺れていた。風のせいか、それとも誰かが遊んでいたのか。いつもの仁美の側に、黒沼さんが座った。枯葉が乾いた音で転がった。
黒沼さんはリュックから厚い茶封筒を出した。手渡された封筒と、彼女の顔とを見較べた。彼女は前方を見つめ、漕ぎはじめた。長い髪が風になびいた。
「預かってたの。あなたにって」
ダブルクリップで綴じた原稿。見憶えがあった。膝に乗せて読みはじめた。手記は小説のような体裁がとられていた。そのことに僕は驚かなかった。こんな話だった。
定時制高校の若い国語教師が、ある女子生徒と関わる。生徒は薬物依存で、自殺未遂を何度も繰り返していた。会社重役の父親は愛人のマンションに入り浸っていた。気まぐれに帰宅しては、妻子に暴力をふるう。母親はカルトにはまり、娘に信仰を強要した。娘は援助交際で得た金を、売人が流す薬につぎ込んでいた。
教師は彼女を救おうと奔走する。依存治療の専門医や、心理療法師に協力を仰ぐ。売人や薬との関係を断ち切らせた。彼女は高校を中退し、家を出て風俗で働きだした。
元生徒は教師を振り回した。携帯やメールで自殺をほのめかし、深夜や仕事中に呼び出す。経営者やヤクザ、不倫相手との揉め事を仲裁させる。やがてふたりは教師と教え子以上の関係となった。
教師との関係に支えられ、元生徒は一時、精神の均衡を取り戻すかに見えた。だが母親との関係を修復しようとしたのがあだとなる。人格改造セミナーに参加させられ、薬物を盛られる。
何も告げぬまま失踪した恋人。教師は教団の関与を疑う。警察に訴えるが相手にされない。人権救済の市民組織も、被害者が風俗嬢とあって腰が重い。彼は入信希望者を装い、教団へ単身乗り込んだ。足腰も立たぬほど暴行され、放り出される。恋人の姿は見つけられなかった。
自発的に入信したのだという母親の言葉を、彼は信じようとする。気持を断ち切ろうと、小学校教諭の採用試験をめざした。新しい職場にも慣れたある日、恋人の元同僚を名乗る女が現れる。当時教団に出入りしていたといい、真相を語る。
恋人は薬漬けにされていたが、あるとき急に正気に返り、儀式を拒んで制裁を受けた。敷地内で頸を吊り、遺体は内密に処理されたという。教祖の妻も巻き添えになった。制裁を妨害したとのいいがかりをつけられたのだ。
教師は衝撃から長いあいだ立ち直れなかった。担任した生徒の悩みを知ったのはそんなときだ。その母親は教祖の愛人らしかった。因縁を感じた彼は、教団の調査を再開する。食品会社社長との関係が浮かび上がった。
教祖と社長は高校の同級生だった。その会社には黒い噂があった。賞味期限を過ぎた商品や、ラベルの貼り替えが行われているという。内部告発文書とされるものが、ウェブで流布していた。
生徒の父親は会社の買付人で、行方不明となっていた。真面目で責任感がある人物だが、何かの事情で紛争地へ飛ばされたとの噂があった。教祖はその妻に眼をつけていた。会社主催のパーティーで紹介されたのだ。社長は親友のためならどんな便宜でも図った。自身の利益にもなるなら、なおさらだ。
教団の被害に遇った生徒は、他にも複数いるようだった。ある六年生がそうだった。イジメの現場を目撃し、相談を受けたのがきっかけで、教師はその事実を知る。
その子の話はこうだ。玩具店の店長にバッグを確かめられた。なぜか身に憶えのないキーホルダーが出てくる。口止め料として裸の写真を撮られた。連鎖反応みたいに何もかもうまくいかなくなる。母親が教団に入信し、自分も抜けられなくなった……という。
この店長は社長の中学の後輩だった。
社長の娘が何者かに刺殺されたとき、教師はこの生徒の相談に乗っていた。他人に明かすわけにはいかず、疑いを招く要因となった。
長い原稿を読み終え、僕は大きく息をついた。出来は今ひとつだった。未解決で放り出された問題が多すぎた。その謎が解けないまま、作者は死んでしまった。いいたいことが頭の中で渦巻いていた。呟いたのは別の言葉だった。
「知り合いって黒沼さんだったのか」
「『知り合い』? そんな風にいってたの」彼女は寂しげに笑った。
互いに口をきかずブランコを漕いだ。いつしか競争になっていた。黒沼さんは子供相手にムキになった。遊具は大人向けにできていなかった。僕の方が高く漕げた。鎖の軋み、往来の騒音、枯葉のざわめき。曇り空を見上げ、思いきり反動をつけた。
写真の束を想い浮かべた。他の子の写真は惨めさが滲み出ていた。あれで喜ぶ男がいたら、そいつはやはりどこかおかしいのだ。彼女の写真にはそんな何かが欠落していた。
一枚ずつ確かめる僕を、寄り添って見守る仁美。その体は写真と同じだった。撮られた時期の違いは見分けられなかった。
成長期だというのに。
翌日の放課後。無意識にあの場所へ向かっていた。封鎖された焼却炉を過ぎた。フェンス沿いに体育館の裏へ回った。
ひと月が経っていた。裸になった銀杏の前で、あの午後のお嬢を想った。話があるといい残し、血まみれで縛られていた彼女を。
黄金色の堆積物は、用務員の長崎さんが掃き集め、ゴミ袋に詰めて収集に出していた。そこでひとりの人生が断ち切られたことなど、乾いた地面からは読み取れなかった。ごつごつした樹皮の黒っぽい染み。それだけが事件の痕跡を留めていた。
手を伸ばし、そっと木肌を撫でた。お嬢の記憶は過去に埋もれつつあった。このまま忘れ去ってしまうのだろうか。大人になって社会に揉まれるうちに。かつてこの世に存在した気高い魂を……。
背後に気配を感じ、振り返った。お嬢ではなかった。
「ここに居たのね」ダッフルコートを着た仁美が近づいてきた。表情は逆光で見えなかった。「捜したわ。坂崎さんに訊いたらもう帰ったって。お別れをいいに来たの」
「転校するの?」
仁美は頷いた。濡れた眼が光った。乾いた風が甘く香った。「施設へ行くことになったの。市の外れの方。もう逢えないと思う」
「バスで遊びに来なよ。みんな歓迎する」
「他の人なんてどうだっていい。仁美はマロ君のことが……」
彼女は僕に抱きついた。泣きじゃくる声が僕の肩でくぐもった。頬が冷たかった。僕は抱き返さなかった。体育倉庫の方を眺め、その声を聞いていた。河原の土手で短い会話を交わしたあの夕暮れから、こんなにも遠ざかってしまうなんて。
「君は洗脳されていた。おそらく三年前から」
むせび泣きがやんだ。華奢な体がこわばった。
「教祖におもねるためなら何でもした。僕を監視し、周囲から憎まれるように仕向けた。図書館通いや、本の隠し場所を密告した。見抜かれる危険を冒し、店長に引き合わせまでした。被害者を装い、同情心につけ込もうとね。小道具の写真まで用意した」
「何をいってるの」仁美は身を引き離し、後ずさった。怯えた眼で僕を見つめた。急に理解できない存在になったかのように。「仁美、そういう冗談嫌い。怖いこといわないで……」語尾が慄えていた。
「信者は孤立するほど依存心が強まる。だから親父は愛子さんをそそのかした。一杯やって車を飛ばすのが、憂さ晴らしには一番だとね。風邪をひいて休んだといったね。周到ないいわけだよ。彼女は君が学校へ行ってるものと思い、化粧品や着替えを探した。その隙に君は、チャイルドシートに細工した。偶然に頼りすぎだが、事故が起きなくても不都合はない。母親もそんな風に殺した」
仁美はぎこちない笑みで、哀願するようにいった。「まさか本気じゃないでしょ……」
誰かが僕の口を通じて勝手に喋っていた。熱に浮かされたようだった。「細かい部分は怪しい。証拠もない。真偽は君の方が詳しいはずだ。愛子さんはどこかで感づいたんだろう。邪魔な存在になった。君は彼女をロッカーの角へ突き飛ばした。やはり失敗しても問題にはならない。罪を被ってもらえるのはわかってた。父親は死体の発見を遅らせ、君を逃がそうとした。わざとだなんて夢にも思わず」
仁美は泣き腫らした眼で、信じられないように僕を凝視した。何かいおうとしてやめ、唇を噛んで視線をそらす。拳をきつく握り締めた。華奢な肩が慄えた。
「許せなかったの。優しかったママが、仁美とパパを棄てて……あんな汚い言葉で罵るなんて。思わず『やめて』って飛びついた。そしたら足を滑らして……あの鈍い音……パパはママの名前を呼んで抱き起こした。そしたらママの頭……ああ、まさかあんなことになるなんて!」
呟く声は次第に悲鳴のようになった。溢れた涙が頬を伝い落ちた。
「『これはパパがやったんだ。お前は帰りなさい』って。でもママはもう……」
「そうさ。戻っちゃこない。お嬢もだ。それがわからなかったとでも?」
仁美の嗚咽が凍った。その一瞬を僕は見逃さなかった。
「親父はあの店長から、女の子たちの個人情報を譲り受けてた。君を斡旋した見返りにね。それを信者獲得に利用してた。お嬢の父親が、同じ性癖の持ち主だった。三者は子供を喰い物にすることで繋がってた」
「生きてくためよ。口座にお金が残ってるなんて嘘。ママが置いてく生活費じゃ、全然足りなかった。教祖様は助けてくれた。あなたに何がわかるのよ!」
「君に治療が必要だってことさ。父親が君のパパを陥れたことで、お嬢は悩んでた。僕の親父との関わりも察してた。話ってそのことだったんだ。お嬢は勘が鋭かった。それとも偶然見ちゃったのかも。例の小道具を。彼女の眼つきから君は悟った。秘密を見抜かれたとね。僕の小刀を使ったのは、疑惑を煽るためだ」
「仁美のこと、ずっとそんな風に思ってたのね……」
彼女は醜く顔を歪め、自嘲するようにいった。人を魅了する輝きは失せていた。それまでどうして美少女に見えていたのか、わからなかった。
「お嬢は最後の力を振り絞り、中指で瞳を指した。犯人を僕に教えようとしたんだ。中山仁美、君の仕業だとね。美人の優等生の、卑猥な身振り。傑作だと君は思った。敢えてその恰好で樹に縛りつけた。自分への侮辱をそのまま返すつもりで」
ひと月も経ったそのときになって実感した。お嬢は本当に手の届かない世界へ行ってしまったのだ。何かが胸の奥から、強烈な痛みを伴ってこみ上げてきた。
「くそっ……莫迦にされてると思ってた。でも最後の最後には信じてくれたんだ。暗号を読み解くことを!」
仁美の声は狂ったようにうわずった。「殺人犯だっていい触らすの? それとも——」
「警察へ突き出すかって? まさか」僕の笑い声も乾いていた。涙は眼底を灼き、ひとりでに溢れた。「僕はあの父親をどうにもできない。虚栄の毒で倒れるのを待つくらいさ。まして他人なんか、どうしようもない」
「何それ。わけわかんない」
「君は親父とは違う。まだ矯正の見込みはある。自首するんだ」
仁美は声もなく涙を流し、いやいやをして後ずさった。制裁に遇った僕を、ただひとり心配してくれた子。誰もが疑いの眼を向けるなか、信じるといってくれた子。その彼女があからさまに怯えていた。僕の魂に今度こそ、醜い闇を見いだしたかのように。
すべてを撤回し、謝りたい衝動に駆られた。この子に罪はない。僕なのだ。善良な人々が喰い物にされるのを許したのは。善行もすれば過ちも犯す、慎ましい人々。父上は彼らの心の隙につけ込み、罪悪を地上へ広めた。それをただ眺めてたのは僕なのだ。
奇声が秋の空気を裂いた。
倉庫の陰から何かが飛び出してきた。父上が罰しに現れたかと錯覚した。仁美は驚き、身をひるがえした。その胸を晴彦は、腰だめに構えた小刀でひと突きした。慰み物にされるカナヘビ——あの場面の再現であるかのように感じた。
仁美は濡れた眼を剥いた。喉の奥が詰まるような音を立てた。そして説明を求めるかのように僕を見た。
晴彦が両手を離した。仁美は小刀を両手で押さえ、力が抜けたように膝をついた。そのまま前のめりに倒れた。乾いた土に血溜まりが広がった。晴彦は仁美に取りすがって泣いた。
僕は夢遊病者みたいに裏門を出た。
足はあのマンションへ向かっていた。黒沼さんはその日も休んでいて、何も訊かずに迎え入れてくれた。今度はシャワーさえ浴びなかった。わずか数分で異変が起きた。シーツの間で身じろぎもせず、互いに見つめ合った。
「今度からちゃんと着けないとね」と彼女はいった。
季節の終わりを意識した。今度があればね、と僕は思った。
崖っぷちマロの冒険
2012年12月20日 発行 第二版
著 者:ヘリベ マルヲ
発 行:人格OverDrive
Photo : "Poster of a Girl" By Ansel Edwards Photography
URL : http://www.flickr.com/photos/anseledwardsphotography/8133872228/
©2012 ヘリベマルヲ Printed in Japan
bb_B_00100314
bcck: http://bccks.jp/bcck/00100314/info
user: http://bccks.jp/user/111606
format:#002t
Powered by BCCKS
株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp
撮影:吉野祐輔
著者近影
ヘリベ マルヲ
ショートピースを愛する自称インディーズ作家。1975年仙台生まれ。
インディーズレーベルにて七冊の小説を刊行。代表作は『Pの刺激』。
アヴァンポップな作風を特徴とする。

Thứ Năm, ngày 16 tháng 4 năm 2015

事実

事実


 シオン修道会は、一〇九九年に設立されたヨーロッパの秘密結社であり、実在する組織である。一九七五年、パリのフランス国立図書館が〝秘密文書〟として知られる史料を発見し、シオン修道会の会員多数の名が明らかになった。そこには、サー・アイザック・ニュートン、ポッティチェルリ、ヴィクトル・ユゴー、そしてレオナルド・ダ・ヴィンチらの名が含まれている。

 ヴァチカンに認可された属人区であるオプス・デイは、きわめて敬虔なカトリックの一派だが、洗脳や強制的勧誘、そして〝肉の苦行〟と呼ばれる危険な修行を実施していると報道され、昨今では論争を巻き起こしている。オプス・デイは、ニューヨーク市のレキシントン・アヴェニュー二四三番地に、四千七百万ドルをかけて本部ビルを完成させたばかりである。


 この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて事実に基づいている。


《主な登場人物》


ロバート・ラングドン……ハーヴァード大学教授宗教象徴学専門
ソフィー・ヌヴー……フランス司法警察暗号解読官
ジャック・ソニエール……ルーヴル美術館館長
アンドレ・ヴェルネ……チューリッヒ保管銀行パリ支店長
リー・ティービング……イギリス人の宗教史学者
レミー・ルガリュデ……ティーピングの執事
マヌエル・アリンガローサ……オプス・デイの代表司教
シラス……オプス・デイの修道僧
ジョナス・フォークマン……ニューヨークの編集者
ペズ・ファーシュ……フランス司法警察中央局警部
ジェローム・コレ……同警部補

プロローグ

パリルーヴル美術館午後十時四十六分

 ルーヴル美術館の高名な館長、七十六歳のジャック・ソニエールが、グランド・ギャラリーのアーチ形通路をもつれる足で進んでいた。いちばん近くにある絵へどうにか駆け寄った。カラヴァッジョだ。ソニエールは金箔の施された額をつかみ、名画を力まかせに手で引いて壁から剥がした。そのままよろめいて仰向けに倒れ、キャンバスの下敷きになった。
 予想どおり、そばですさまじい音を立てて鉄格子が落下し、グランド・ギャラリーの入口とのあいだをさえぎった。寄せ木張りの床が震える。遠くで警報が鳴りはじめた。
 ソニエールはしばし横たわったまま息をあえがせ、状況をたしかめた。自分はまだ生きている。絵の下から這い出し、洞窟さながらの空間を見て、隠れる場所がないかと目で探した。
 ぞっとするほど近くから声が響いた。「動くな」
 手と膝を床に突いた恰好で、ソニエールは凍りつき、ゆっくりと首をめぐらせた。
 わずか十五フィート先の鉄格子の向こうから、襲撃者の大きな影がこちらを見おろしている。長身で頑丈そうな体躯を持ち、肌は蒼白で、髪も真っ白だ。ピング色の虹彩が暗い赤の瞳孔を囲んでいる。その色素欠乏症の男はコートから拳銃を取り出し、鉄格子越しにソニエールへねらいをつけた。「逃げても無駄だ」どこのものとも判別しにくい訛りがある。「場所を教えろ」
「もう言ったじゃないか」無防備な体勢でひざまずいたまま、ソニエールは途切れがちな声で答えた。「なんの話か、さっぱりわからない」
「嘘をつくな」男は微動だにせず、ソニエールを見つめた。目に光が揺らめくだけだ。
「おまえや同胞たちは、おのれに属さないものを隠し持っている」
 ソニエールはアドレナリンが体を駆けめぐるのを感じた。なぜそれを知っている?
「今夜、正当な守護者がその地位を取りもどす。隠し場所を教えれば命は助けてやる」男はソニエールの頭に銃口を向けた。「命を懸けるほどの秘密なのか?」
 ソニエールは息ができなかった。
 男は首をかしげ、銃の照準を合わせた。
 ソニエールは屈服のていで両手をあげた。「待ってくれ」ゆっくりと言う。「そちらの知りたいことを教える」そして、慎重にことばを選んで数語を発した。それは、繰り返し練習してきた嘘だった……心で唱えるたびに、実際に口にする機会がないことを祈っていたのだが。
 ソニエールが話し終えると、襲撃者はわが意を得た顔で笑みを浮かべた。「よし。ほかのやつらが言っていたこととまったく同じだ」
 ソニエールは驚きに打たれた。はかのやつら?
「見つけたんだよ」大男はあざ笑った。「三人ともな。おかげでいまのおまえの話が嘘ではないと確認できた」
 そんなはずはない! 自分と三人の参事の正体は、みずからが守る古代の秘密に劣らぬほど厳重に隠されている。死を前にした参事らが、厳密に定められた手順に従って同じ嘘を教えたのだとソニエールは直感した。それは取り決めのひとつだった。
 襲撃者はふたたび銃のねらいを定めた。「おまえが死ねば、真実を知る人間はおれだけになる」
 真実。その刹那、ソニエールはこの状況が持つ真に恐るべき意味を悟った。もし自分が死んだら、真実は永遠に失われる。思わず、遮蔽物を求めて這い進もうとした。
 銃声がとどろき、腹に銃弾が突き刺さった瞬間、焼けつく熱さを感じた。激痛と闘いながら、前のめりに倒れる。少しずつ体をひねり、鉄格子の向こうの襲撃者に日を凝らした。
 銃口はまっすぐ顔へ向けられている。
 ソニエールは目を閉じ、おのれのなかで恐怖と後悔が激しく渦を巻くのを感じた。
 弾切れを伝える硬い音が通路に響いた。
 ソニエールはすばやく目をあけた。
 男は楽しげな表情で銃に視線をやった。ふたつめの弾倉に手を伸ばしたが、考えなおしたらしく、ソニエールの腹を見て冷たく微笑んだ。「ここでの仕事は終わりだ」
 ソニエールが下を向くと、白いリネンのシャツに銃弾の穴があいているのが見えた。胸骨の数インチ下あたりから、血が小さな円の形にしみ出している。胃だ。銃弾が心臓をそれたのは残酷ですらある。アルジェリア戦争に従軍したソニエールは、この恐ろしく緩慢な死を目撃した経験を持っている。腹脛へ漏れ出した胃酸によって、中から徐々に体が侵されていき、死に至るまで十五分はかかるだろう。
「苦痛は善だ、ムシュー」男は言った。
 そして立ち去った。
 ひとりになったジャック・ソニエールは、ふたたび鉄格子を見つめた。自分を閉じこめているあの扉は、少なくともあと二十分は開かない。助けが来るころに、自分の命はもはやあるまい。だが、心をとらえていたのは、死そのものに対するよりもはるかに大きな恐怖だった。
 秘密を伝えなくてはならない。
 ふらつきつつ身を起こし、殺された三人の同志の姿を心に描いた。何代もの先人たちのことを……そして彼らに委ねられた使命を思い起こした。
 途切れることなくつづいた英知の鎖。
 あれだけ警戒し……あれだけ安全策を施したにもかかわらず……いまや自分こそがただひとつ残された鎖の環、歴史上有数の秘密を守り伝える唯一の人間になってしまった。
 ソニエールは震えながら、なんとか立ちあがった。
 何か方法を見つけなくては・…‥

グランド・ギャラリーに閉じこめられた身では、希望の光を託せる相手はこの世にひとりしかいない。ソニエールは絢爛たる監獄となった通路の壁に目を走らせた。世界で最も有名な数々の絵が旧友のごとく微笑みかけている気がする。